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ロンドン生活開始から4年強経過。あこがれの田舎暮らしも敢行!このまま骨を埋める展開か??インベストメントバンカー日々迷走中。


by canary-london
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「多忙の罪」―母からのメッセージ

6月某日、母から封書が届いた。
大きさからして、さしずめ5月末に帰国したときの写真だろうと思って封を切ると、モノクロの書籍のコピーが数枚。

添えられたメッセージ。
「最近読んだ本で、貴女のような生活の人のことが書いてありました。
私は必ずしもこれが貴女と一致するとも思いませんし、’時間の隙間に自分と直面するのが恐ろしい、自分を受け入れない・・・’は貴女とは違うと思います。
でも、人間はいずれ自然物の一環であり、ゆっくりハートで生きる大切さを忘れるな、というこの一文、賛成だなと思ったのでコピーを送ります。」

小市民サラリーマンの私としては、Googleのように法廷での闘争心満々のどこぞの作家団体から著作権侵害で訴えられては食うに困ってしまうので抜粋のみを掲載します・・・。
ちなみに話は逸れるが、Googleに対する米Authors Guildの訴訟については、個人的には非常に狭量で時代錯誤な考え方だと思う。
これだけインターネットへの依存度が高くなった現状、「著作権」を葵の御紋よろしく振りかざしてネット検索から全ての書籍を隔離するのにはそもそも無理がある。Authors Guildを納得させることは出来ないのだろうが、所詮ネットでの書籍検索が可能になったところで、人間はやはり従来の紙媒体での本を読み続けるのだと思う。
このトピックについてはまた後日。

出所は、中野孝次氏著「自足して生きる喜び」の第15章’多忙の罪’です。

2004年に逝去された中野さんの文章、および母の一言にたくさんのメッセージが込められているので、多くのコメントは不要だと思うけれど。

自分は、ここで描写される女性達とは違う。
「情報を遮断し、静かに考える時間。誰とも口をきかず、孤独と向き合う時間。」
日本(=自分にとっては「東京」と同義。残念ながら憧れ続けた田舎生活とは無縁。)にいると、不思議なことに、自分と向き合う時間を取ることが極端に難しくなる。
日々を過ごしながら、自分が貧しい人間になっていくような焦燥感に駆られる。
こんな焦燥感を感じ続けていたからこそ、「自分と向き合う時間」を求めて、自分は海外で働く道を選んだのだと思う。

と自分では思っているのだけれど、母から見ると、ここに描かれる現代版「猛烈な女たち」と大差ないのだろうな。
5年前の冬。
とある縁でもっとのんびりした某外資系商業銀行から投資銀行へと身を転じ、0時前に帰宅することがほぼなくなった。以来、母からは冗談混じりに「そんな因果な商売にはさっさと見切りをつけて一緒に仕事しましょうよ(彼女は注文販売のみ受け付けるささやかなクッキー屋さんをやっている。日本から離れて最も恋しくなるものの一つが、母のクッキーである。)。」と言われ続けた。

心配を掛け続けて、ごめんなさい。
少しずつだけれど、自分は自分と向き合い始めているのだと、思う。


「多忙の罪」―母からのメッセージ_f0023268_926062.jpg



(以下抜粋)

「多忙の罪」

わたしから見ると到底人間とは思えぬぐらい多忙な生き方をあえてしている女性が、今の日本にはいるらしい。しかも高学歴の、いわゆるキャリア・ウーマンにである。

(中略)

Uさん(35歳)は、米国債を日本の機関投資家に売る外資系証券会社のトップセールスレディで、仕事もプライベートも全力でこなす、とある。朝五時半には目を覚まし、七時にはもう会社に出ている。百万ドル単位の金を預かって運用する責任者で、東京の金融市場が開いているあいだは常に緊張の極にあるが、それが生き甲斐でもある。さらに、午後六時半に開くロンドン市場、午後十時半のニューヨーク市場からも眼を離せないから、それにも注意し、帰宅はいつも午前様になる。一時半に寝るとしても睡眠四時間だが、彼女は「私にとって、寝るという行為は日常的じゃないんですよ」とうそぶいているとある。
そんな極度の多忙の中にいて、Uさんは私生活でも目一杯何かをせずにいられない。
アフター5には、一時間でも時間をとって、社外の友人たちと会うようにしている。
文章を勉強するためシナリオ教室に通ったり、知人とバンドを組んでヴォーカルを担当、週に一度はそのための時間をさく。しかもそれでいて夜に一度は必ず職場に戻る。週末には十キロ、二十キロ走る習慣だし、とにかくこの人はつねに何かをしていないと気がすまない。
「走っている時のランニングハイと一緒で、忙しい方がアドレナリンが出て脳が活性化している感じ。むしろ暇な方が苦手ですね。それに忙しいほど、自分の時間をみつけようとするから、プライベートも充実するものですよ」

(中略)

わたしはこの一連の記事に目を通し、ここに紹介されていた女性たちの日常を想像してみた。どれもが反応の速い、頭のいい、しゃきしゃきした女なのだろう、と思った。
着る物、持ち物はブランド品で、髪も着こなしもスタイルもいい。仕事の能力もある。
要するに世間の平均よりずっと有能な、遣り手の女性たちである。
彼女たちに共通しているのは、忙しい方が生きがいがある、暇な方が苦手だ、と感じていることだ。「忙しい方がアドレナリンが出ていて脳が活性化している感じ」とは、そのことを正確に表現した言葉だろう。アドレナリンなんて言葉はアメリカの探偵小説でしか見なかった言葉だが、それがことの性質をよくあらわしている。つまりこの人たちの生き方はアメリカ流なのである。マインド(頭)の働きのよいことが生の感覚を高め、何もしない(閑)でいる時には生きている気もしないのだ。

(中略)

これら一連の記事をまとめた記者は、感想をこうも記していた。
「たまには情報を遮断し、静かに考える時間も必要ではないか。誰とも口をきかず、孤独と向き合う時間も必要ではないか。
端から見ていて心配なのは、燃え尽きること。老いを受け入れ、死に備えることが推奨されるこの世紀末に、彼女たちはあまりに無防備にみえる。」

(中略)

その上で言えば、つねに走りつづけていないと安心できない、時間に間隙のできるのが恐ろしいという心のありようは、自分と直面するのが恐ろしいのである。彼女たちは本当の意味で自分を受け入れ、肯定することがまだできないでいるのだ。多忙は自分と直面するのを避ける手段なのである。そして自分と直面することを恐れるのは、もしかするとそこにはまったく空虚な、無価値な自分があるかもしれぬとおそれているためではないか、とわたしは推測した。
たしかに人は社会の中で何かを為すことによってのみ、自分の能力を知ることができる。何もしない人は無能と見られても仕方がない。だから彼女たちが目一杯働いて自分を認めさせようとするのは、わたしにも理解できる。
しかし、人は社会人としてのみ生きるものではない。人は人間社会に生きる者であると同時に自然に属する。動物や植物と同様、天地自然の理に服して生きている。人間はとかく自分で何も自由に出来るように思いがちだが、人間の自由意志で出来ることなぞ限られている。自然の定めに従わずには何も出来ないのだ。

(中略)

人に休息、休憩が必要なのはそのためだ。緊張と集中を解除し、リラックスさせる。
心を安らかにし、身を閑の中に置く。いかにあなたが暇をきらっても、あなたの中の自然は閑を欲しているのである。いかにあなたが頑張り続けようとしても、身がそれを許さない。
働いた日々のあとにはなおのこと長い閑が要る。ヨーロッパ人が長い休暇をとり、休暇中は仕事も何も忘れてのうのうと過すのは、経験から人はそうしないでは長くいい仕事をつづけられないのを知っているからだ。
そしてその長い閑に身を置くときこそ、自分が最も自然に復帰したときである。身を自然の中に置き、心を空にして自然の声を聴け。自分のハートの声に従え。そういうときを体験することであなたは自分自身と一つになる。あるがままの自分を受け入れ、認め、全肯定することができる。

(後略)
by canary-london | 2006-07-06 09:26 | diary