ロンドン生活開始から4年強経過。あこがれの田舎暮らしも敢行!このまま骨を埋める展開か??インベストメントバンカー日々迷走中。


by canary-london
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ブログの執筆というのは実に身勝手なもので、ページの左側に並ぶ「テーマ」の中で、自分の書きやすいものばかり記事数が増えていくものである。
自分自身に関していえば、「culture」や「diary」などが圧倒的に多い。
「travel」ももっと多くて然るべきなのだが、ものぐさなので旅行記もサボっているものがかなりの数に上る。
ひっそりとした佇まいの「social entrepreneur」という項目には、何と情けないことに、昨年5月以来一度も触れていなかった。

「social entrepreneur」=「社会起業家」は、数年前から非常に興味を持っている分野なのだが、旬なトピックだけに深く研究されている方が多い中で自分はあまりに不勉強なので、何か書こうと思うとついつい論文でも書くような心持ちになりついつい先送りにしてきた、というのが正直なところ。
しかし、先週のAnita Roddick(アニタ・ロディック)氏死去のニュースは、そんな稚拙な悩みを断ち切るのに良いきっかけだと感じ、実に久し振りにこのテーマで筆を取ってみることにした。
(よくよく見たら、昨年5月の記事には「・・・・社会起業家論への挑戦その1」なんて題名を付けていた。続編のない「その1」って一体・・・・。)

「Dame」の称号も与えられたRoddick氏が64歳という比較的若い年齢で亡くなられたことは、英国のメディアでは再三取り上げられたので、英国在住の方には説明不要かと思うが、言わずと知れた「Body Shop」の創設者。動物実験反対をはじめ、企業がいかにして、「社会に対して良いこと」をしていけるのか、という観点を最初に持ち込んだ人の一人といえる。
今では日本も含め世界中に展開するBody Shopの起源は、彼女が1976年に英国南部の小さなリゾートの街、Brightonで立ち上げた、天然の原料に特化した小さなスキンケア用品の店である。
主張が強く、大企業幹部とは意見の対立も多かったため、追悼記事は必ずしも好意的なものばかりではなかったが、Roddick氏が英国のみならず、全世界のビジネスのあり方に多大なる影響を及ぼしたことは間違いない。

私のようなシロウトにとって非常に参考になる「社会起業家」の著者、斎藤槙氏によれば、概念自体の基礎となる「social enterprise=社会事業」というコンセプトのアカデミックな定義は、スタンフォード大学教授のGregory Dees教授の文章に詳しい。
簡単に言うと、「営利と非営利の中間」ということか。

二つのことについて、ランダムに簡単に書いてみようと思う。
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一つは、社会事業を行う形態について。
斎藤氏は、著書の中で「NPO化する企業」と「企業化するNPO」の両方について取り上げているが、これから先の世界を考えるに、やはり基本となるのは前者の形ではないかと思う。
米国のコモングラウンドなど後者の成功例もあるものの、「社会に対して良いこと」は、基本的に無償の活動でやっていくのには限界がある。
日本ではどうも、この手の活動は、「オバサマ達が手弁当で行うもの」、「金儲けなんて敵だ」的な考え方が根底にあるような気がするのだが、社会に対して意味のある活動をしていくためには、最も重要なものがある。
それは、資金。
別に金融に携わっている人間でなくても、そんなことは分かる。
資金調達手段も、税制も、社会事業にとってはこの上なく重要なのである。

その意味では、現在「ベンチャー・フィランソロピー」と呼ばれるような考え方は、実に力強い。
ビル・ゲイツのファンドがその最たる例といえるが、即ちこのような活動に対して資金を提供することは、「寄付」ではなくて、あくまで「投資」である、という考え方。
ゲイツ氏についても、ウォーレン・バフェット氏についても、またU2のボーカル・BONOについても、批判的な人は山ほどいるが、基本的な姿勢には私は大賛成である。

もちろん、彼らのようなスケールで出来る筈もないのだが、「金の亡者」と呼ばれる投資銀行業界に身を置くものとしては、やはりいずれは、何か彼らのようなことが出来ないかと考える。
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もう一つは、社会起業家を取り巻く多数のトピックと、自分の生活との関連付けについて。
Roddick氏とは少し角度が異なるが、やはり女性でこの分野で多大なる影響力を持つのが、SAI(Social Accountability International)創立者兼CEOのAlice Tepper Marlin(アリス・テッパー・マーリン)氏である。
実は、Tack氏に薦められ、二年ほど前に日本で彼女のセミナーに参加したことがある。
私が「社会起業家」という概念に真剣に興味を持つきっかけとなったのが彼女のセミナーだったわけだが、その影響が大きいのだろう。Marlin氏およびSAIの専門分野となる、労働者の人権と企業・消費者というトピックには、とりわけ興味が高い。
児童労働や搾取労働、低賃金・長時間労働などを企業が行っていないかどうかのモニタリング。
行っている企業の製品は、消費者として購入をボイコットする。
世界的な潮流でいえば、1990年代に主流となった考え方であり、ナイキ製品の非買運動に繋がった。
特に、児童労働については、ビル&メリンダ・ゲイツ・ファンデーションの3つの主要な分野である、「①保健衛生、②教育、③図書館」とも共通する。
つまり、子供を労働力として使うのではなく、きちんとした教育を受けさせることが如何に重要かということ。
「社会に対して良いこと」は、「これからの社会を良くしていくこと」にほかならないのだから。

この点については、「自分の生活との関連付け」が、実は一番難しいのかもしれない。
自分は労働者であると同時に、壮大なる一消費者でもある。
パンプスを一足買うたびに、「この企業の東南アジアの工場では児童労働が行われていやしないだろうか?」といったことが頭をよぎらないではないももの、その答えを知らないからといって(そして大概の場合は答えを知らない)、パンプスの魅力に負けて結局買ってしまうのだから。
・・・まずは自分がこの姿勢を変えなきゃならないのだろうなあ。

「社会事業」「社会起業」の概念の実行への道のりは、長く険しい・・・・・。
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by canary-london | 2007-09-22 03:33 | social entrepreneur

蕎麦屋で一杯

先般、急な用事のため、非常に慌しい日程で東京を往復した。
日本に戻ると毎度毎度食べ物の話になってしまって恐縮だが(何しろ普段が極端に抑圧されているのだから仕方がない)、東京に戻った際、回数の限られる昼夜の食事のなかで、何とかして一度は時間を作ろうとするのが、「蕎麦屋で飲む」ということである。
「粋な大人の日本人」と思えるような人には、やはり蕎麦屋で飲むことを愛してやまない人がとても多いし(杉浦日向子さんの「そば屋で憩う」がバイブル?)、食通好みの雑誌などでは「そば特集」は定番中の定番である。
日本で愛読していた「dancyu」のような雑誌、ロンドンで同様の試みをしたところで、絶対に売れないんだろうな。

今回は、日曜日の昼間、両親と共に麻布十番のとある贔屓の店に出掛けた。
偶然商店街のお祭りをやっており、いつも混みあう店内もさらに人が多くて活気づいている。
三人で小上がりに上がり込み、ビールに定番おつまみを並べて、最後はせいろでしめるお決まりのパターン。

なぜ人は蕎麦屋へ通うのだろうか。

まずは、言うまでもないことだけれど、「美味しい」から。
シメのそばは勿論のこと、蕎麦屋のつまみは実に美味しい。
いずれもシンプルながらお酒との相性が抜群という、酒飲みにはたまらないメニューばかりなのである。この店の卵焼きなんて、もう絶品なのだ。
(断っておくが、この日は昼間でもありビールに終始。これが夜だとついつい日本酒に手が伸び、長居してしまっていけない。)

もうひとつ、蕎麦屋の雰囲気がたまらなく好き。
我々のように座敷に上がって談笑するもよし。
一方、一人でさっさと(しかも美味しい)食事を済ませたいときにも、蕎麦屋は強い味方だ。
世の中のおじいちゃん・おばあちゃんが一人で気兼ねなく入って食事を済ませられるところとしても、蕎麦屋という業態には最もニーズが高いのではないだろうか(つまり少子高齢化の日本において力強いビジネスモデルだ・笑)。

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そんな様々な客のニーズがあるため、会話に関してなんらの決まりごともない。
「決まりごと」というとやや大げさだが、例えばフレンチ・レストランでは、「ゆっくりと会話を楽しんで下さい」という意味を込め、前菜・メイン・デザート・・と各々がゆったりとした間隔で運ばれてくる。
皆がそうというわけではないけれど、これ、慣れていない日本人にとっては結構辛かったりする(話題の乏しい人には尚更)。
もちろん、日本人としては蕎麦屋へ行くのとフレンチ・レストランへ行くのでは、TPOも違えば服装も(相手も?)違うのだろうから、単純に比較はできないけれど、とにかく、「急いで食事をしたい人」と「ゆっくり食事を楽しみたい人」の両方が混在する蕎麦屋で飲みながらゆっくり会話を楽しむのは、実に心地良いのだ。

・・・といいながら、父との会話は概ね日本のワーク・カルチャーへの批判。
日本でしか味わえない贅沢な環境でそばをすすりつつ、日本批判に終始するのは如何なものか・・・と帰り道には反省半分、我が国ニッポンに対する不甲斐ない気持ちが半分。

この次に蕎麦屋ののれんをくぐるのはいつになるのだろうか?
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by canary-london | 2007-09-20 04:19 | gourmet
イギリスという国に暮らしていると、英国民の「ナショナリズム」のような感情に遭遇することは実に稀なので、英国にナショナリズムという概念はないに等しいのではないか??と感じるようになる。
もちろんそれは、自分の国を愛していないということではなくて、その姿勢や表現方法が、所謂「愛国主義者」から想像するものと大きく異なるだけなのだろうと思う。
使い古された議論ではあるが、この点で好対照を成すのが、米国の「コテコテ」のナショナリズムである。現在のブッシュ政権のもとでは、この「コテコテ」度がさらに増幅されている感があるが、教育の賜物というべきか、米国民の中には実に分かりやすい「愛国心」が、体の隅々にまで流れているのだ(そういえば、NYで過ごした小学生時代は、意味も分からず毎日米国旗に敬礼しながら国家を歌っていた)。

米国での同時多発テロ・9・11(6周年の今日言及しているのはただの偶然なのだが)と、ロンドンでの7・7に対する両国民の反応・対応にみるこの違いを、以前ごく私的且つカジュアルな文章にまとめたので、いずれ発掘することがあれば、ここでもご紹介するかもしれない。

いつもながらに冒頭から脱線したが、英国民の「ナショナリズム」についてであった。
この週末にひょんなきっかけから行ったイベントが、実のところ、ロンドンに来てから(高校時代も通算して5年強)、もっとも英国的ナショナリズムを感じた行事だった。

そのイベントとは、「Last Proms」。
二ヶ月近くにわたるクラシックのコンサート・BBC主催による「Proms」の最後の夜である。
(この場を借りて、一緒に行こうと誘ってくれたAさん、そして入手困難なチケットを二人分快く譲って下さったO氏に深謝致します。)

Promsについては、昨年本ブログでも紹介したことがあるが、正にロンドンの夏の風物詩と呼ぶに相応しい。
主会場となるRoyal Albert Hallは、コンサート・ホールというよりも、ドーム型の球場のような風情で、音が拡散してしまうため、音質は良いとは言い難く、それを理由に「Promsへは行かない」主義を固持している人もいる。
そういう面はあるのだが、Promsは、とにかく「お祭り」なのだ。
難しいことは考えず、楽しければ、まあいいじゃない。

フタを開けてみれば、「楽しければいいじゃない」の集大成のようなイベントだった。
演奏者も、男性は白のタキシード、女性はイブニングドレスで登場。
聴衆も、大概は英国旗をあしらった思い思いの衣装を身にまとう(私の隣のオバサマは、お世辞にもスレンダーとはいえないボディをバド・ガールよろしく全身ユニオン・ジャックのボディコンドレスで包んでいた)。
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クラシックのコンサートというと、静寂が基本的ルールだが、この日だけは違う。
演奏中こそ静かに聴いているものの、曲の合間には、風船やらクラッカーやら、ありとあらゆる物が宙を舞う。
演奏者も実にノリが良く、この日はソプラノとして超大物のAnna Netrebko(アンナ・ネトレプコ)が登場したが、歌いながら赤いバラと投げキッスを配り歩く大サービスぶり。
エンターテインメントとしても存分に楽しめた。

で、英国的「ナショナリズム」。
私も日本人の友人と共に、服装こそ普通だが、会場の外で売っている小さな英国旗を買って臨んだ。
後半にかけては、前半を更に上回る盛り上がりぶり。
お決まりの、Elgarの「威風堂々」や、Henry Woodの「Rule Brittania」、最後を締めくくる国家斉唱となると、聴衆全員が総立ちで、国旗を振りながらの大合唱となる。

確かに普段のPromsに比べて生粋の英国人が多い感はあるものの、よく見ると、我々のような日本人を含め、様々な国籍の人が旗を振っている。
更にいうと、ユニオン・ジャックがルールということでは決してなく、この日の指揮を務めたJiri Belohlavek(イルジー・ビエロフラーヴェク)の出身地であるチェコの旗や、理由は不明だがドイツやオーストラリア、果てはどこのものか見当もつかないような旗もちらほら。
且つ、会場が一体となって、英国を象徴する歌を大合唱しているのは、何とも不思議な光景。
これが、緩やかなる英国のナショナリズムかなあ、などと感じた次第だった。

Belohlavekは、今回が初の「Last Proms」の指揮者だったが、独特な雰囲気を適度に楽しみつつ、そつなく大役をこなしていた。
スピーチで、Promsのことを「world’s biggest and most democratic music festival」(=世界で最大且つもっとも民主的な音楽祭)と形容していたのが印象に残った。

それにしても、この記念すべきイベントで俄かナショナリストになるべく、先の3曲の歌詞ぐらいは暗記していくべきだった・・・と帰りの道すがら反省。
決して排他的にならないナショナリズムがまかり通る英国という国をまた一段と好きになった夜の幕は、「蛍の光」(“Auld Lang Syne”)の合唱で閉じていった。
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by canary-london | 2007-09-12 03:39 | culture

名前と日本人

「日本人と名前」ということについて考えさせられる瞬間が、毎日のようにある。
私募債をアレンジする仕事をしている私は、目に付く案件をクローズすると、社内マーケティングの意味を込め、社内の比較的広範なメーリングリストに向けてメールを流すことを心がけている。
メールには、ごく簡単な案件の概要と共に担当者の名前を記す。
この案件のセールスABC、トレーダーはXYZ・・・という風に。

その度に思い知らされるのが、「日本人の名前は難しい」という現実。

担当者が中国人や韓国人の場合は、至って簡単。
何故なら、抜け目のない現実主義者の彼らは、母国語での本名などお構いなしに、”Mike”やら“Andy”やらといった、短く分かりやすい西洋的な名前を自ら付けているから。

一方の日本人はというと、実に損をしているのだ。
日本人の名前は本当に美しく、奥が深い。
漢字の組み合わせが無数にあり、音(おん)が同一の名前の人に遭遇しても、漢字までが全く同じというケースは珍しい。
わび・さびを解さないガイジンには、このこと自体既に理解の範疇を超えている(失礼!)。

また、漢字で書くことが前提の日本人の名前は、仮名にすると、例えば女性で7文字・男性で8文字程度の長さはザラである。
これ、アルファベットで表記すると、かなり長い。

いってみれば、西洋人にとっての日本人の名前というのは、「名前」に要求される二つの基本的な要素を欠いているのだ。

この要素の一つは、「呼びやすさ」。
母音と子音の構成といった細かいことと並んで重要なのが、単純に「短い」ということだったりする。

男性のファーストネームで多いパターンの「仮名4文字」の名前は、勢い短縮することになる。
歴史を遡ると、やはり親密なる「ロン・ヤス」関係になるためには、「ヤスヒロ」では語呂が悪いのだ(Ronald→Ronは既にルールのようなものが確立されているので、殊更に「短縮している」という意識はない)。
もっとも、長く発音の難しいファーストネームをもつ小泉前首相は、”Jun”などといった愛称に甘んじることなく、海外でも広く認知されていたが・・・。

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言語の成り立ちが違うので、イントネーションも異なる。
私も(男性ではないが)、自分のファーストネームを短縮して通称としているクチ。
私の場合は特に名前が長いわけではないが、西洋人(特に英米人)には、仮名3文字の名前を平坦な発音で発声することが難しいため、「XX子」の最後の「子」を外さないと、自分ではない他人の名前のように聞こえてしまうのだ。

二つ目の要素は、「予測可能」かどうか。
英米人の名前の場合は、前述のような名前短縮のルール(例えば、AndrewならAndyといったような)がしっかり確立されていることに加え、音を聞くとかなり高い確度で綴りを予測することが出来る。
日本人の名前を彼らに説明する場合には勿論こうはいかず、一文字ずつ根気良く「SugarのS・・・」とやっていく羽目になる。
Eメール全盛のご時世では、実はこれもかなり重要。

挙げた要素の二つともが、要は「覚えやすい名前かどうか?」ということになるのだろう。


話は飛ぶようだが、最近霞ヶ関などで流行っている論調に以下のようなものがある。
つまり、「東京がアジアにおける金融センターになり得ないのは、他のアジア諸国ほどに英語が第一外国語として根付いていないからだ」といった議論(ちょっと古いですが・・・添付ご参照。ちなみにこれも先日「金融と憂鬱」のトピックで引用させて頂いたE氏に教えて頂いた記事である)。
お役所の方々の真剣な議論と自分が酒の肴に思いついたアイディアを一緒にしては怒られてしまいそうだが、「日本は果たして世界に通用するのだろうか?」という宇宙的命題は、実は名前にも関係するような気がしてならない。

しかしこの問題提起には、またしても解がない。
日本的な、美しく情緒溢れる名前は、何としてでも失いたくはない。
・・・とやや憂鬱になったところでデスクを見渡すと、チームの男性陣は、ものの見事にJohn, Andy, Chris, Neil, Edと「典型的な西洋の分かりやすい名前」が勢揃いしているので、げんなりしてしまった。

何か良い解決策、ないもんでしょうかね??
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by canary-london | 2007-09-01 02:36 | culture