ロンドン生活開始から4年強経過。あこがれの田舎暮らしも敢行!このまま骨を埋める展開か??インベストメントバンカー日々迷走中。


by canary-london
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ナルコレプシーもどき

更新が滞りがちな理由その二。
最近異様に睡眠時間が増えたような気がする。

春眠暁を覚えず、ならぬ。
ロンドンはここ二日ばかりやっと涼しくなってきたとはいえ、記録的な暑さが続く中「夏眠」?
ロンドンでは古い建物が多いためエアコンの付いた住居は少なく、周囲の友人の間では「寝苦しいよねー」とのぼやきばかりが聞こえてくる中、我が家はたまたま数年前に完成した建物なので、幸いにして夜の最中に耐え難い暑さで目が覚めるということもなく。

生来貧乏性で「寝てる時間なんて勿体ない」と感じてしまう性格であることに加え、平日は仕事のほかにもやりたい事が多過ぎるため、平日の睡眠時間は平均すると大体4-4.5時間程度。
5時間眠れる日があると、翌朝頗る快調である。

本ブログは別段どこぞの女子大生ブログのような「私の生活と悩みをシェアしましょう」的な切り口は皆無なので、自らの醜態については書きたくもないのだが、それにしても先週土曜日は大ショックだった。

前週一緒にBarbicanでコンサートにご一緒したTさんによる(明日もアスコットでご一緒ですー、宜しくお願いしまーす♪)
「Turandot良かったよー!!」
とのコメント、さらにそれに続いてコンサート後Tさんと三人でお茶を飲んだO氏による
「Royal Opera Houseは財政危機でほぼ瀕死。おそらくそんなに近くない未来に閉鎖だろう」
というややラディカルなコメントを受け、
「やっぱりTurandotへも行かなければ・・・」
と最終日となる7月22日土曜日の13:00開演のマチネのチケットを平日に買い求め、行くのを楽しみにしていた。

しかし。何と。
確かに前日の金曜日は、上述O氏のお誘いで何とも素敵なKensington豪邸でのホームパーティーにお誘い頂き(Aさんお世話になりました!!!)、帰宅は午前3時であった。
が、それにしても。
目覚ましを掛け忘れて目を覚ますと、何やら西日の感。
嫌な予感がして時計を見やると、表示は18:01。

一瞬日付が分からなくなり、今日はひょっとして金曜日?との淡い期待を抱いたが、金曜日のその時間は件のホームパーティーへ出掛けるべくラストスパートで仕事を片付けていたので、そんな筈もなく。

睡眠時間15時間ぶっ続けなんて、生まれて初めてなのでは。
しかも水を飲んだり排泄したりというニーズが君にはないのだろうか、と今度は本気で自分の健康が心配になった。
129ポンドのチケットをフイにしたショックに落ち込む暇もなく(でもショックの大きさは絵画で表すならばムンクの「叫び」である)、実はその日は昼間オペラ・夜はコンサートと贅沢三昧のハシゴの予定であったため、急いでシャワーを浴びて身支度を整えコンサート会場へ(上述Aさんには更にここでも大変にお世話になったのだが、それは私的交信に留めさせて頂くことにして。コンサート報告も別項にて)。
一つ自分を慰めるならば、起きたのが13:05だと悔しさ倍増だが、ここまで思い切り寝飛ばすと諦めもつくというものである。

加えて、最近は平日夜中から筆を執る(もとい、PCに向かう)という気力が今一つ足りない。
全ては、この異常な暑さのせいにすることにして(ロンドンではそんな文句が出るのは年に数週間程度の話なのだが、何しろ地下鉄の暑さがたまらない。初乗り3ポンド取るんだから車両に冷房ぐらい入れろっつーの。)。

自分の睡眠時間について書いていたら、ふとナルコレプシーという病気について、もっと言えばRiver Phoenix(リバー・フェニックス)について思い出した。
ナルコレプシーは、突然抗し難い睡魔に襲われ、道端であろうと何処であろうと短時間眠り込んでしまう困った病気である。
「マイ・プライベート・アイダホ」という映画の中で、若かりし日のリバー・フェニックスがナルコレプシーを持つ若者を演じた。
1993年にドラッグ中毒でリバーが他界する二年前の作品。


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自分の最近の失態に関する記述で始まった今日のエントリは最後にあらぬ方向に向かってしまったけれど、リバー・フェニックスのような偉大な(別にイイオトコだというだけではない)俳優が23歳という若さでこの世を去ってしまったことは本当に残念でならない。
でも、若く美しいまま最期を迎えると、人々の記憶の中ではいつまでも若く美しいままいられるというのもまた真実なり・・・(知らない人のために: 写真中リバーの隣はマトリックスのキアヌ・リーブスです)。
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by canary-london | 2006-07-29 23:16 | diary
更新が滞りがちな理由その一。
最近、少しピアノというものに対して真面目になりつつある。
真面目というと少し違うのだけれど。
「やっぱりピアノが好き」から来る真剣さ。

そもそも、ロンドンに来てから実に16年ぶりにピアノ・レッスンなるものを始めて、何となく「次回のレッスンの為に練習しなきゃ!!」的な気負いがあり、それが逆にピアノに向かう手を止めていたように思う。

7月16日。サングラスの隙間のそこかしこから陽射しが追ってくるような、焼け付くような暑さの日曜日。
R先生は一ヶ月ほど仕事で日本に一時帰国されていたため、7-8週間ぶりとなるレッスンだろうか。折しも、微妙なサイズの関係でこれまで階段を通すことが出来ず新居にピアノが入らなかったため、R先生の新居にてYAMAHAの真っ白な素敵なピアノでの初めてのレッスン。
我が家の電子ピアノとは感触が全然違う。

正直、その間リビングに鎮座するピアノに殆ど触っていなかった。
レッスン当日いつもの日曜日より少し早めに起きて練習するも、所詮付け焼刃で出来ることなんて知れてる。
昔から、試験勉強は前日の夜中にならないと手につかないタイプの私。
そつなくこなせるかなと思いきや、レッスン当日の結果は散々(とは先生は言わないものの、自分ではとてつもないフラストレーション)。

「ごめんなさい、忙しくてあんまり練習する時間がなくって」と口ごもる私。
「仕事も忙しいし、限られた時間の中でやりたいこと色々あるもんねー」と私の執筆熱も良くご存知の先生、すかさずフォロー。
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私のピアノの先生は、偉大なコーチングの先生でもある。
去る5月に先生とご友人とで一緒に出版された「とっておきのぴあれん手帳」は、ピアノを習う人にとっても教える人にとっても初心に戻ることの出来る一冊、なのだと思う。

R先生は、生徒の好きなものを見つけて伸ばしていくということがとてもとても上手である。
おまけ付で先週一応仕上げて頂いたHaydnは、「抜けるような空色」。
昔良く弾いたMozartのK545は、「深緑」。
それぞれの曲を色に例えると、自分の弾きたいイメージが膨らんでいく。

何と言うのか、前回のレッスン以来、心境の変化。
別に、自分は苦しい「練習」をするために今回はるばる日本からピアノを持ってきたのではなく。
楽しく演奏したい。

先生から次回の課題曲にと借りた楽譜には、一面の赤ペン。
セロテープで修復が必要なぐらいに使い込まれた楽譜を見ながら、この楽譜を見て繰り返し練習に励んだ人々の姿を思い浮かべたりして。
そんな赤ペンで書かれた一節に、「一日30分」の一言。

今の自分には、「毎日一日30分」は無理かもしれないけど。
昔は弾けなかったけど大好きなリストの「愛の夢」を、ショパンを、ラフマニノフを。
いつか弾けるようになるために。
亀の歩みでも、こつこつと、頑張ってみよう。
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by canary-london | 2006-07-24 08:45 | diary
先週土曜日はまたもBarbican Hallに出没。
今回12月末に来英してからというもの、Barbicanに入り浸っているような気がする。
変身途中のRFH(Royal Festival Hall)にも久々に行ってみようっと。

土曜日は友人と一緒だったので、19:30開演のコンサートの前にBarbicanに程近い日本料理店「幸(SAKI)」を訪れ、最近の試みである土曜日ディナーをトライ。
いきなり話は逸れるが、まだ1月のオープン以来二度目の訪問でしかない「幸」は、素材にこだわった美味なるお料理の数々もさることながら、実のところ私が最も重宝しているのがお手洗いである。
彼我の「トイレ文化論」についてはまた別途述べたいと兼ねてから思っていたのだが(いかにしてお下劣にならずにトイレに関する記述を「文化論」に発展させるかが鍵?)、誰が何と言おうと私はウォシュレットという文化を敬愛してやまない(注: 一部過剰表現あり)。
この点に関しては異常なまでの潔癖症と日本人が揶揄されようが、病は気から、心と体の健康は清潔なお尻から(?)。
TOTOさん、こんなスバラシイものを発明してくれてありがとう。

ともあれ、ここ英国では
「そもそもウォシュレットというコンセプトに対するニーズが低い」、
「日本とは逆に紙が安価で水が高いため、ウォシュレット自体の経済的な存在意義が低い」
などの感覚的な理由は多数推測しうるが、内実は上下水道に関するがんじがらめの規制故、各方面の認可を取って設置することが異常に大変だと「幸」のオーナーのAさんが話していた。

粘り強い交渉の結果、店舗としてはロンドンで(英国で?)初めてウォシュレットを導入することに成功したという「幸」における「トイレ・タイム」は、頗る快適。
繰り返し言うけれど、もちろんお料理も大満足のお店なのだが、個人的にはお店のレゾン・デートルの大きな部分はトイレにあると言っても過言ではない。

日本のトイレを体験したことのあるガイジンに聞くと、最も興味深いのが「音姫」機能である。
男性諸氏の秘密の小部屋がどうなっているかは知る由もないが、女性のそれには、ウォシュレット機能と併せて音を掻き消すための「流水音」機能がついているものが殆どである。
何で生理現象に伴う音をそもそも掻き消そうとするかが、欧米人には不可解な部分。
羞恥心に対する考え方自体が若干異なるように思うのだが、日本では羞恥心を持つ=殊更に「臭いものにフタ」的な考え方になるように思えてならない。
それを更に一歩進めて考えると、幼稚園や小学生時分から刷り込まれる「右へ倣え」的カルチャーと、それに従えない者に対する制裁としての「イジメ」ということになり、翻ってみるとそれが画一的な羞恥心の表現手段に具現されるのかもしれない。

トイレ文化論に端を発した議論があらぬ方向に向かってしまった・・・。

トピックは、土曜日のコンサートであった。
以前より楽しみにしていたベルリン・フィルの第一フルート奏者・Emmanuel Pahud氏によるモーツァルトのフルート・コンチェルト2番を軸に組んだ曲目は以下の通り:

Rebel:    Les elemens (excerpts)
Mozart :   Flute Concerto No.2
Mozart :   Serenade No. 9, ‘Posthorn’

Flute:       Emmanuel Pahud
Orchestra :   Academy of St Martin in the Fields
Conductor:   David Stern


とにかく、Pahud氏の独壇場だったと思う。
先月VPOのSchultz氏の際に目にしたのと似た、24金の煌びやかな楽器(flautebankerさんご指摘の通り、Pahudの楽器はボストン製とのことであるが)。
「貴公子」のイメージからすると、個人的には初めて目にする実物は各所で目にする写真に比べ幾分老けているな、というのが正直な感想。
だけれど、ひとたびフルートを握ると、 超人的な指の動きと感情豊かな音色は聴く者を引き込まずにはいられない。正直、好感は持てるものの技量不足のオーケストラはあたふたと着いていくのがやっとというイメージだった。

最近フルートという楽器の音色が非常に心地良いと思うようになった。
かくいう自分のピアノも頑張らねば。
次回はそのピアノと最近の変化について一言。
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by canary-london | 2006-07-19 09:26 | music

X1サーチについて語る

「これって、超―――便利!!!」
「ひとたび手にしてしまうと、これなしの生活なんて考えられない!!!!」
と思うアイテムが、たまにある。

ロンドンに来てから3ヶ月程度経った頃だっただろうか、Debt Capital Marketsの頼れるアソシエイトRから教えてもらった「X1 Desktop search」がそれ。
今となってはX1なしでは仕事が出来ない。

正確なソフト名は、「X1 Client Enterprise」というらしい。
作成元の「X1 Technologies」社の全貌はというと、米国は西海岸のCalifornia / Pasedena市に本社を構えるソフトウェア会社である。

X1がやってくれることは、自分のPC内の抽斗の奥深くに仕舞い込んで開かずの間状態になっているファイルや、Emailのパーソナルフォルダで同じ憂き目に遭っているメール達を瞬時にして検索するという作業である。
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私は主としてメールの検索を使用している。
きっとデスクトップのファイル検索も便利なのだろうが、現在の仕事の性質上、何しろ緊急性が高いのはメールである。


自分が今やっている仕事は、大まかに説明すると投資家と発行体を結び付ける仕事であるため(大概これにデリバティブが絡んでくる)、情報のやり取りのクオリティーとスピード感(それには当然無数の仕事に素早くプライオリティーを付けることも要求される。判断を誤るとそれはダイレクトに会社としてのビジネス減少に繋がる。)が非常に重要な要素になるほか、ときに「言った/言わない」が問題になったり、あるいは過去の情報の履歴を辿ることが必要不可欠になってくる。

メールというのは恐ろしく便利なコミュニケーション・ツールであるが、欠点も無数にある。
「相手の顔が見えずにニュアンスが伝わりにくい」というような感覚的なものを除いても、例えば。
(1) Recipient(受け取り手)の状況如何に拘らず、情け容赦なくメールは入り続けてくる。
「Out-of-office auto reply(不在時の自動応答)」のように「私はアナタのメッセージ読んでませんからよろしくっっ!」と全ての差出人に対してディスクレーマーを発信するようなシステムもあるが、そんな自動応答でも戻ってこなければ、差出人はメールを出した時点で相手には必ず読んでもらえるものだとの自己満足に浸るのが常である。
(2) メールはデフォルトでは新しい順に表示される。
もちろん、並べ方を差出人別にしたりメールのタイトル別にしたりと自在に変更することは可能であるが、おそらく大体の人は最新のメッセージが最も上に表示されるようなソートの仕方を採用していると思われる。冷静に考えると、新しいメッセージが最も重要性が高いわけではないのだけれど。
(3) 自分が使用しているOutlook Expressに限った問題ではなくおそらくはほぼ全てのメールソフトに共通することだと思うけれど、Inbox(受信箱)やSent Items(送信済みアイテム)等の容量は非常に限定的である。
つまり、これらフォルダが一定の容量を超えると、必然的に別の場所(主としてメール内のパーソナルフォルダ)にアーカイブ(保管)せざるを獲ない。
効率的なビジネスマンはこんな悩みはないのかもしれないが、自分は残念ながらこの仲間入りは出来ないらしく、「あのメール何処のパーソナルフォルダに入れたっけーーー!!??」というパニック状態が頻発する。

そこで登場するのがX1サーチ。
おぼろげな記憶の糸を手繰り、幾つかのキーワード、場合によってはそれと組み合わせて差出人などの情報を入れ込むと、一瞬にして該当するメールを全て表示してくれる。
メールボックスの中のどこかに保存している限りにおいては、これで探し求める情報がすぐに目前に表示されるのである。

情報が氾濫する時代に対する批判は、これまた無数。
しかし情報氾濫の時代に対抗する手段も、ヒトは考え出すのである。

ちなみに本日7月13日のわたくしのメールボックスに舞い込んできたメールの総数は実に289通。
7月・8月はヨーロッパでは静かな時期で通常に比べるとメールがかなり少ない筈なのに、である。
当分はX1サーチが手放せそうにない。
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by canary-london | 2006-07-14 09:11 | cravings
6月30日は、City of London Festival 2006の一環として開催された、日本が世界に誇るピアニスト・小川典子氏のコンサートに誘われて出掛けた。
(図々しくその後の典子さんを囲むディナーにも参加。Oさん本当にいつも有難うございます!)

1962年以来続けられているCity of London Festivalの今年のテーマは、「Trading Places: London - Tokyo」ということで日本が前面に。
既にロンドン在住の様々な方がブログ等で取り上げられている通り、目玉の一つであった6月28日の安藤忠雄氏の講演会など、日本をテーマとしたイベントの数々が6月26日~7月13日までの二週間半にわたって催されている。

「日本」というテーマに沿って選ばれたのは、以下の曲目:
Rentaro Taki:Menuet
            Grudge
Debussy:Images, Book 2
Dai Fujikura:Returning (world premiere)
Takemitsu:Closed Eyes 1&2
Prokofiev:Sonata No. 7
<アンコール Debussy:Clair de Lune-月の光>

1. MUSIC
前述のOさんをはじめ、プロの批評家の方々がコメントをされることと思うので、素人の感想を一言ずつだけ。典子さんの演奏については素晴らしい!の一言だったのだが、何しろ聴いたことのない曲ばかりなので、演奏よりもむしろ音楽についてのコメントになってしまうことをご容赦頂きたく。

滝廉太郎は、恥ずかしながら「荒城の月」「花」など「音楽の教科書」のイメージ以上のものを持っていなかった。1901年に、そのままヨーロッパ社交界のパーティーで流せそうな、こんな音楽を作っていたなんて。脱帽。
ドビュッシーも東洋への傾倒が強く、今回のImages, Book 2の三曲のうちの二曲目は月明りに照らされるインドの寺院を、また三曲目は漆器をイメージしながら描いたものだという。特に二曲目は神秘的な何ともいえない深い味わいの曲。
欧州で広く活躍する若き作曲家・Dai Fujikura氏は、典子さんのためにこの曲を作ったのだと話す。「静かな旋律を弾くときに、ピアノに『歌わせる』ような典子さんの演奏」にインスパイアされたというFujikura氏の斬新な和音使いは、不思議な後味を残した。
そして武満。「新鮮な和音」はここでも続く。
武満については、典子さんが曲の合間に差し挟むwittyなトークの中で披露した、生前の武満氏と話した際のエピソードが何しろ印象的だった。典子さんが「武満さんはどんなピアノを使って曲を作っておられるんですか?」と質問すると、小柄なのに額はやたらに大きい武満氏からは、予想に大きく反して「ヤマハのアップライトです」との答え。「STEINWAYのグランドピアノ」のような模範解答とのあまりのギャップに戸惑った典子さんが「何でまた?」と更に問うと、武満氏はさらに背をすぼめ、神経質そうに「いや、自分で弾く音がうるさいもんですから・・・」と答えたという。
ややブラックな要素すら感じられるこのエピソードにロンドンの聴衆が大喜びしたのは言うまでもない。

最後、プロコフィエフの通称「戦争ソナタ」。
とにかく、「凄い」の一言。
典子さんが演奏前に、「一応警告しておきますが、とても『brutal』な曲ですから・・・」のコメント通り、凄まじい。
怒り。憎悪。
人間のあらゆるネガティブな感情をミキサーにかけてブレンドしたら、こんな感じになるだろうか。
必然的に超絶技巧になる上、その激しさから2分も弾けば腱鞘炎になるだろうと思われる曲を、ミスなく弾いていく。
フィナーレと共に、聴衆からは割れんばかりの拍手。

2. 典子さんについて
何しろ、魅力的な方である。
Fujikura氏の言う通り、静かなメロディは憂いのある抑えた弾き方をされる一方、戦争ソナタのような好戦的なメロディは驚くほど激しい。
そんな表情豊かな演奏に加え、先の武満に関するエピソードからも分かる通り、曲の間には必ず英語で曲の紹介を兼ねた小咄を一言披露されるので、会場の雰囲気が一気に和やかになる。
何てリラックスされているのかと感心したけれど、もしかするとそれは彼女自身が自分をリラックスさせるための一つの手段なのかもしれない。

コンサートが終わると、ドレスからカジュアルなパンツ姿に着替えてのご登場。
その華奢な腕の何処からあの「戦争ソナタ」の音が出てくるのか俄かには信じられないほど、スレンダーで素敵な方である。

ディナーでは席がやや遠かったことと、典子さんは翌日次のコンサートへと出発される予定で早めに帰途につかれたため、残念ながら今回ゆっくりお話しする機会はなかったけれど、皆で話していても飾る部分が全くない。
『Newsweek』誌・日本版が選ぶ「世界が認めた日本人女性100人」(2006年6月28日号参照)のお一人であるとは全く思えない気さくさである。
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3. セッティングについて
今回の会場はSt. Botolph without Bishopsgateという名の、Liverpool St駅から程近い教会。
正面のステンドグラスといい、緑豊かな中庭といい、なかなか素敵な教会だと皆で同意してぐるりと眺めたのだが、帰宅して幾つかネットで調べてみても、「(詩人のJohn) Keats氏が洗礼を受けたこと以外は特筆することのない教会。1666年の大火で破損した後、1720年代に復元。」なんて書かれている。
シティは確かに、St. Paul’s大聖堂をはじめとして、有名・大規模な教会が驚くほどたくさん存在するので、どうやらここは何ら特別ではないらしい。 こんなところは、ロンドンの「Square Mile」、何とも贅沢である。

それにしても、こんなシティのど真ん中の教会にスタインウェイのグランドを搬入して舞台を整えてもらった挙句、数十人程度の少人数でこんなに素晴らしい演奏を堪能してしまったなんて、何だか「独り占め」感満々。

4. 英国人的日本人のサークル
Oさんが声を掛けて下さって集まる面々は、Oさんご自身が素晴らしいフルートの腕前を披露された前回のコンサートでもお会いした多種多彩な方々に加え、国際結婚のご夫婦でピアノ連弾をされているピアニストのカップルなど、またも興味深い方々と知り合いになることが出来た。

Oさんへの感謝の念と共に、本日発見したこのグループの特性をもう一つ。
地下鉄の駅入口にて、皆散り散りの方向へと向かう。
お別れの挨拶は、男女問わず軽くハグ(抱擁)を交わす。
こちらに来てから、外国人とはごく普通に挨拶のハグとキスを取り交わすけれど、日本人が相手になると、これはまずあり得ない(日本カルチャーどっぷりの相手なら、痴漢と間違われるか、或いは相手に変な好意を持っていると勘違いされるかが関の山である)。
しかしながら、ごく自然なハグのやり取り。
こういうことが自然に出来るって、素晴らしいではないか。

英国暮らしが長い人が多いことが理由だと思うのだが、何だか心が温まった気がして一人家路についた。
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by canary-london | 2006-07-11 09:48 | music
6月某日、母から封書が届いた。
大きさからして、さしずめ5月末に帰国したときの写真だろうと思って封を切ると、モノクロの書籍のコピーが数枚。

添えられたメッセージ。
「最近読んだ本で、貴女のような生活の人のことが書いてありました。
私は必ずしもこれが貴女と一致するとも思いませんし、’時間の隙間に自分と直面するのが恐ろしい、自分を受け入れない・・・’は貴女とは違うと思います。
でも、人間はいずれ自然物の一環であり、ゆっくりハートで生きる大切さを忘れるな、というこの一文、賛成だなと思ったのでコピーを送ります。」

小市民サラリーマンの私としては、Googleのように法廷での闘争心満々のどこぞの作家団体から著作権侵害で訴えられては食うに困ってしまうので抜粋のみを掲載します・・・。
ちなみに話は逸れるが、Googleに対する米Authors Guildの訴訟については、個人的には非常に狭量で時代錯誤な考え方だと思う。
これだけインターネットへの依存度が高くなった現状、「著作権」を葵の御紋よろしく振りかざしてネット検索から全ての書籍を隔離するのにはそもそも無理がある。Authors Guildを納得させることは出来ないのだろうが、所詮ネットでの書籍検索が可能になったところで、人間はやはり従来の紙媒体での本を読み続けるのだと思う。
このトピックについてはまた後日。

出所は、中野孝次氏著「自足して生きる喜び」の第15章’多忙の罪’です。

2004年に逝去された中野さんの文章、および母の一言にたくさんのメッセージが込められているので、多くのコメントは不要だと思うけれど。

自分は、ここで描写される女性達とは違う。
「情報を遮断し、静かに考える時間。誰とも口をきかず、孤独と向き合う時間。」
日本(=自分にとっては「東京」と同義。残念ながら憧れ続けた田舎生活とは無縁。)にいると、不思議なことに、自分と向き合う時間を取ることが極端に難しくなる。
日々を過ごしながら、自分が貧しい人間になっていくような焦燥感に駆られる。
こんな焦燥感を感じ続けていたからこそ、「自分と向き合う時間」を求めて、自分は海外で働く道を選んだのだと思う。

と自分では思っているのだけれど、母から見ると、ここに描かれる現代版「猛烈な女たち」と大差ないのだろうな。
5年前の冬。
とある縁でもっとのんびりした某外資系商業銀行から投資銀行へと身を転じ、0時前に帰宅することがほぼなくなった。以来、母からは冗談混じりに「そんな因果な商売にはさっさと見切りをつけて一緒に仕事しましょうよ(彼女は注文販売のみ受け付けるささやかなクッキー屋さんをやっている。日本から離れて最も恋しくなるものの一つが、母のクッキーである。)。」と言われ続けた。

心配を掛け続けて、ごめんなさい。
少しずつだけれど、自分は自分と向き合い始めているのだと、思う。


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(以下抜粋)

「多忙の罪」

わたしから見ると到底人間とは思えぬぐらい多忙な生き方をあえてしている女性が、今の日本にはいるらしい。しかも高学歴の、いわゆるキャリア・ウーマンにである。

(中略)

Uさん(35歳)は、米国債を日本の機関投資家に売る外資系証券会社のトップセールスレディで、仕事もプライベートも全力でこなす、とある。朝五時半には目を覚まし、七時にはもう会社に出ている。百万ドル単位の金を預かって運用する責任者で、東京の金融市場が開いているあいだは常に緊張の極にあるが、それが生き甲斐でもある。さらに、午後六時半に開くロンドン市場、午後十時半のニューヨーク市場からも眼を離せないから、それにも注意し、帰宅はいつも午前様になる。一時半に寝るとしても睡眠四時間だが、彼女は「私にとって、寝るという行為は日常的じゃないんですよ」とうそぶいているとある。
そんな極度の多忙の中にいて、Uさんは私生活でも目一杯何かをせずにいられない。
アフター5には、一時間でも時間をとって、社外の友人たちと会うようにしている。
文章を勉強するためシナリオ教室に通ったり、知人とバンドを組んでヴォーカルを担当、週に一度はそのための時間をさく。しかもそれでいて夜に一度は必ず職場に戻る。週末には十キロ、二十キロ走る習慣だし、とにかくこの人はつねに何かをしていないと気がすまない。
「走っている時のランニングハイと一緒で、忙しい方がアドレナリンが出て脳が活性化している感じ。むしろ暇な方が苦手ですね。それに忙しいほど、自分の時間をみつけようとするから、プライベートも充実するものですよ」

(中略)

わたしはこの一連の記事に目を通し、ここに紹介されていた女性たちの日常を想像してみた。どれもが反応の速い、頭のいい、しゃきしゃきした女なのだろう、と思った。
着る物、持ち物はブランド品で、髪も着こなしもスタイルもいい。仕事の能力もある。
要するに世間の平均よりずっと有能な、遣り手の女性たちである。
彼女たちに共通しているのは、忙しい方が生きがいがある、暇な方が苦手だ、と感じていることだ。「忙しい方がアドレナリンが出ていて脳が活性化している感じ」とは、そのことを正確に表現した言葉だろう。アドレナリンなんて言葉はアメリカの探偵小説でしか見なかった言葉だが、それがことの性質をよくあらわしている。つまりこの人たちの生き方はアメリカ流なのである。マインド(頭)の働きのよいことが生の感覚を高め、何もしない(閑)でいる時には生きている気もしないのだ。

(中略)

これら一連の記事をまとめた記者は、感想をこうも記していた。
「たまには情報を遮断し、静かに考える時間も必要ではないか。誰とも口をきかず、孤独と向き合う時間も必要ではないか。
端から見ていて心配なのは、燃え尽きること。老いを受け入れ、死に備えることが推奨されるこの世紀末に、彼女たちはあまりに無防備にみえる。」

(中略)

その上で言えば、つねに走りつづけていないと安心できない、時間に間隙のできるのが恐ろしいという心のありようは、自分と直面するのが恐ろしいのである。彼女たちは本当の意味で自分を受け入れ、肯定することがまだできないでいるのだ。多忙は自分と直面するのを避ける手段なのである。そして自分と直面することを恐れるのは、もしかするとそこにはまったく空虚な、無価値な自分があるかもしれぬとおそれているためではないか、とわたしは推測した。
たしかに人は社会の中で何かを為すことによってのみ、自分の能力を知ることができる。何もしない人は無能と見られても仕方がない。だから彼女たちが目一杯働いて自分を認めさせようとするのは、わたしにも理解できる。
しかし、人は社会人としてのみ生きるものではない。人は人間社会に生きる者であると同時に自然に属する。動物や植物と同様、天地自然の理に服して生きている。人間はとかく自分で何も自由に出来るように思いがちだが、人間の自由意志で出来ることなぞ限られている。自然の定めに従わずには何も出来ないのだ。

(中略)

人に休息、休憩が必要なのはそのためだ。緊張と集中を解除し、リラックスさせる。
心を安らかにし、身を閑の中に置く。いかにあなたが暇をきらっても、あなたの中の自然は閑を欲しているのである。いかにあなたが頑張り続けようとしても、身がそれを許さない。
働いた日々のあとにはなおのこと長い閑が要る。ヨーロッパ人が長い休暇をとり、休暇中は仕事も何も忘れてのうのうと過すのは、経験から人はそうしないでは長くいい仕事をつづけられないのを知っているからだ。
そしてその長い閑に身を置くときこそ、自分が最も自然に復帰したときである。身を自然の中に置き、心を空にして自然の声を聴け。自分のハートの声に従え。そういうときを体験することであなたは自分自身と一つになる。あるがままの自分を受け入れ、認め、全肯定することができる。

(後略)
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by canary-london | 2006-07-06 09:26 | diary
正直、予想していた訳ではなかった。
メディアは色々な憶測について報道したけれど、それは主に対ブラジル戦が終わってフィールドの中央で放心するヒデの姿を多くのカメラが映し出した後のこと。
結果的には、6月22日に自分が見たドルトムントでの試合が中田英寿の現役最後の試合となった。

サッカーは好きだけれど、常にメディアへの露出度も高く、非常なる努力家ながら時に偏屈なまでの意志の強さを覗かせる独特のキャラクターを持ち、ビジネスマンとしても一目置かれるなど、日本が世界に誇る一つの「ブランド」とすら言えたNAKATAに関しては、人間的にもプレーヤーとしても「凄い」と思う以外の特別な思い入れは、これまでなかった。
(個人的には中村俊輔が好きなのだが、絶不調の今大会では今一つファンタジスタになり切れない部分を露呈してしまったか・・・。)

自分が生で見た日本代表の最初で最後の試合が、中田英寿の引退試合になるとは。
何か偶然以上のものを感じてしまい、中田のHPでの現役引退について綴ったメッセージ「人生とは旅であり、旅とは人生である」を読んで感じたことを少しだけ書いてみる。
きっとこれから多数のメディアが「若過ぎた引退」とか何とか言って書き立てるのが目に浮かぶけれど、雑音がうるさくなるその前に。
ささやかなオマージュに代えて。

中田のメッセージを読むと、試合後フィールドの真ん中で天を仰ぎ、立ち上がることの出来なかった彼の心中が今になってやっと分かった気がした。
口下手に違いない彼が伝えたかったこと。

全文は中田自身のHPにて公開されているが、
(アクセス数過多のためトラブル続発のようなので、難しい場合はコチラから)



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メッセージを順に追っていく中で感じたこと、徒然なるままに。

1. (QUOTE)
プロになって以来、「サッカー、好きですか?」と問われても「好きだよ」とは素直に言えない自分がいた。
責任を負って戦うことの尊さに、大きな感動を覚えながらも子供のころに持っていたボールに対する瑞々しい感情は失われていった。
(UNQUOTE)

読んでいてふと気づく。
これって。オトナになるにつれて、誰しも子供時代の「好きなこと」「やりたいこと」「なりたいもの」について気づかされずにはいられない、「現実」の部分。
「瑞々しい感情」=「夢」と読み替えたら、それは自分が子供の頃に抱いていたたくさんの「将来の夢」に繋がっていく。
あんな感情を取り戻せたら。
「“新たな自分”探しの旅」に出るという中田が求めているのは、そんな感情を今一度手に入れることなのかもしれない。

2. (QUOTE)
俺は今大会、日本代表の可能性はかなり大きいものと感じていた。
今の日本代表選手個人の技術レベルは本当に高く、その上スピードもある。
ただひとつ残念だったのは、自分たちの実力を100%出す術を知らなかったこと。
それにどうにか気づいてもらおうと俺なりに4年間やってきた。
時には励まし、時には怒鳴り、時には相手を怒らせてしまったこともあった。
だが、メンバーには最後まで上手に伝えることは出来なかった。
(UNQUOTE)

孤立していたともいわれる中田が代表の面々に伝えたかった思いは、最後まで双方のベクトルが噛み合わずに終わってしまったのかもしれない。
(次のワールドカップまでの)四年間というのは、自分一個人の今の状況を考えると途方もなく長い時間のように思えるけれど、次の夢に向かってひた走るスポーツ選手にとっては非常に短い時間に違いない。
2010年、南アフリカに向けて。
日本代表にエール。

3. (QUOTE)
最後となるドイツでの戦いの中では、選手たち、スタッフ、そしてファンのみんなに「俺は一体何を伝えられることが出来るのだろうか」、それだけを考えてプレーしてきた。
ワールドカップがこのような結果に終わってしまい、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
俺がこれまでサッカーを通じてみんなに何を見せられたのか、何を感じさせられたのか、この大会の後にいろいろと考えた。
正直、俺が少しでも何かを伝えることが出来たのか…
ちょっと自信がなかった。

けれどみんなからのmailをすべて読んで俺が伝えたかった何か、日本代表に必要だと思った何か、それをたくさんの人が理解してくれたんだと知った。
それが分かった今、プロになってからの俺の“姿勢”は間違っていなかったと自信を持って言える。
(UNQUOTE)

中田にしては珍しい弱気な発言の後に、彼を支えた無数の人々のメールでの声援についてのコメント。
E-MAILという媒体の罪過を強調することはたやすいけれど、メールにはこんな風に人と人との大事な繋がりを築けるという強みがある。
もちろん、一昔前であれば直筆で認めた(したためた)手紙であるべきところだけれど、見ず知らずの人間同士のコミュニケーションを飛躍的に促進するという意味ではメールに軍配が上がる。

4. (QUOTE)
これまで一緒にプレーしてきたすべての選手、関わってきてくれたすべての人々、
そして最後まで信じ応援し続けてきてくれたみんなに、心の底から一言を。

“ありがとう”
(UNQUOTE)

大事なメッセージを、この一言で締めくくってくれてありがとう。
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by canary-london | 2006-07-04 09:34 | current