ロンドン生活開始から4年強経過。あこがれの田舎暮らしも敢行!このまま骨を埋める展開か??インベストメントバンカー日々迷走中。


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カテゴリ:culture( 34 )

前回、日本に一時帰国した際「へえー」と思ったことについて一つ書いたけれど、今回は実にくだらない方の感動について。

出発前に成田空港をうろうろしながら、同僚のシンジケート・デスク面々へのお土産を物色。メンバーの中には東京勤務の経験があってコンビニおにぎりが大好物といった変わった人物もいるが、これはごく少数派。
何せ私以外は英国人(含・スコットランド、ウェールズ、インド系英国人)、アメリカ人およびカナダ人しかいない我がデスク、以前小豆の入ったお菓子を買ってきたところ、不当に低い評価を受けた苦い思い出がある。

どんな西洋人でも食べやすく、且つ日本のテイストも効いたものはないかと探してふと手にとったのが、「抹茶コルネット」なるお菓子。
要は、ヨックモックのシガール(子供の頃かなり好きだった)の中に抹茶風味のクリームを包み込んだ、何とも和洋折衷・妥協の産物のような「何ちゃって」和菓子である。
私が買ったのは東京の会社のものだったと思うが、ネットで検索すると同名のお菓子は複数のメーカーが製造しており、意外にポピュラーであることが判明。
この「何ちゃって」和菓子、ロンドンのデスクに持ち帰ったところ、何と爆発的な人気を博した。

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カナダ人の男性Eなどは、「こんなに美味しいお菓子は生まれて初めて食べた!」といったちと大袈裟な感動の仕方。退社時には二本ほどポケットに突っ込み、「今日の夜はこれを食べるのを楽しみに帰るよ」などとにこにこしながら出ていくので、満更過剰表現でもないのかも・・・。
余談になるが、Eは生まれも育ちもカナダでカナダ人のお母さんを持つが、お父さんは日本人という日系二世のハーフ。残念ながら日本語は一言たりとも話せないけれど、日本人のお父さんは「食文化」という大切な日本の一面を彼に伝授すればよかったのに・・・などと余計なお世話ながら思ってしまう。
こんな広告塔・Eのおかげもあり、他のデスクからも噂のお菓子を食べに来る人が続出する始末。6本x5袋程度入った箱はまたたく間に空になってしまった。

こんなエピソードにつけても思うのは、やはり彼我の食に対するこだわり・食の充実度の違い。
「抹茶コルネット」は確かに割合美味しいけれど、空港で何気なく買った、日本的感覚でいえばごく普通のお菓子である。それがこれほどまでの感動をもって迎えられるということは、いうまでもなく日本の食のスタンダードがいかに高いか、翻ってこちらの(この文脈では英国人および英国在住の人に限定)人がいかに普段貧しい食生活を強いられているかという動かしがたい事実・・・。
再三書いているとおり、ロンドンの食事情は、私が前回この地に暮らした15-20年前に比べると格段に良くはなったものの、こんな何気ないお土産にまつわるエピソードからも、日英の差を痛感してしまった。
次回帰国の際は、少し目先を変えてC級グルメなお菓子を紹介してみようか、などと企んでいる。
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by canary-london | 2008-08-11 09:22 | culture
先般久し振りに日本に一時帰国する機会があった。
一時帰国するたび、比較的高尚なことから実にくだらないことまで、様々な事象について日本を見直す発見があったり、また日英を比較して改めて感動することが多い。

今回まず驚いたのが、あるデパートに新たに設置された「コンシェルジュ・デスク」。
機能はホテルのコンシェルジュ同様、街の情報などちょっとしたことを顧客の要望に応えてすぐに調べてくれる便利屋さんといったところ。

私は短い帰国の間に、何とかしてお気に入りのブレスレットの壊れた金具を修理してもらいたいと思って新宿をうろうろしていた。
時間もないので銀座の本店まで行かずに何とかしたい。
ちなみにイタリアの某ブランドでロンドンにも当然ショップはあるのだけれど、こと修理となると海外のブランドであっても日本の方が数倍対応が良いため、壊れた貴重品は日本に持ち帰って直すことが殆ど。

このブランド、そのデパートにはショップなどないだろうなと思いながら聞いてみたところ、「弊店にはありませんが・・・」と言いながら手早くGoogleしてくれ、
「新宿地区なら、(ライバルの)I百貨店さんの四階にございます」
との説明。
ご丁寧に、念のため銀座本店にも問い合わせてそちらの営業時間も教えてくれた。

私はデスクの女性に御礼を言って、徒歩5-10分程度のI百貨店へ向かった(幸いここで用は足りた)。

・・・しかしながら、ふと浮かぶ疑問。
このコンシェルジュ・デスクは、私に対して提供したサービスで、一体自身にとって何のメリットがあるのだろうか?
経済的メリットは皆無どころか、むしろこのO百貨店の売上に直結しない説明に時間を割いた従業員の人件費、そしてプリントアウトしてくれたA4の紙代の分マイナスである。

あえてメリットを挙げるとすれば、「O百貨店のコンシェルジュサービスって良いよね」と消費者に口コミで伝わり、全体的な集客力アップに繋がるという中長期的なものか。
この種のソフトパワーが実際にどこまで威力を持つものかは実に興味深い。
正直を言うと、ひねくれ者の海外在住日本人としては、これはやはりサービス過剰・消費者甘やかし大国ニッポンの一つの表れだと感じざるをえなかった。

念のために断っておくが、私はこの時こそO百貨店では何も買わずに立ち去ってしまったが、普段は駅の真上と立地が至便なこともあり、かなり良い顧客である(と思う)。
タダでサービスしてもらった負い目もあり、今回はO百貨店での出費もいつになく多かったような・・・などと考えると、口コミのソフトパワーもさることながら、サービスを利用した人間の良心に訴える方法も意外に有効なのかもしれない(笑)。
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by canary-london | 2008-08-09 08:52 | culture
毎週月曜日に愛読紙FTに寄せられるLucy Kellaway氏のコラムは楽しく読んでいる。

40代後半、生粋の英国人・ロンドンっ子で共働きながら四児の母でもある彼女の文章には、リアルなイギリス人のリアルな説得力がある。
切り口が鋭い。
イギリス人ならではのブラックなユーモアのセンスが光る。

少し視点は異なるけれど、いってみれば私が昨年Islingtonという街に越したことにも通じるものがある。
Islingtonは、最近でこそアート系の若者が増えすっかりお洒落な街と化しているが、もともとはロンドンの下町。従前からIslingtonに住んでいる人々は、昔ながらのロンドンっ子である。
私は今回の滞在では今の家に先立ってKensingtonとSt. John’s Woodに暮らしたが、いずれも非常に居心地の良い上品な住宅地ながら、所謂’ex-pat’(平たくいえば、一時的にロンドンに住んでいる高収入のホワイトカラー外国人のこと)の溜まり場となっている地域であり、「リアル」なロンドン・ライフとは程遠い。
Islingtonには、普通のイギリス人の生活がある。
それは残念ながら犯罪と背中合わせだったりするのだが、日常の小さな発見が楽しい。

Lucy Kellawayの話に戻ろう。
6月23日の彼女のコラムの題材は、「クレーム」。
Julian Bagginiの’Complaint’というタイトルの本が引用されている。
私はBagginiの本は読んでいないのだが、クレームのスタイルと国民性を結びつけた考え方が面白い。
「国民性を単純化し過ぎ」とのお叱りはごもっともだけれど、現在アメリカ人とイギリス人の違いが興味を持つトピックの上位に入る自分としては、英米のメンタリティーに関する記述に知らず読み入ってしまう。

一言でいうと、アメリカ人は、クレーム・文句を言いたいと思ったとき、その事象の原因を作っている相手に対して直接文句を言う。一方、イギリス人は、関係のない相手に対して愚痴るだけ・・・ということになる。
その理由は、アメリカ人は生来的にオプティミストであり、自分の問題をその原因を作っている相手に訴えることにより、世の中を「変えられる」と思っているから。
一方のイギリス人はペシミストなので、元凶に直接訴えようとはしない。
(いつもながらに大雑把な意訳を用いればこんなところか。)

Kellaway氏はイギリス人チーム代表として、
「我々イギリス人は、関係ない相手に愚痴を言うことでも実はかなりすっきりするのよね」
と締めくくっているが、クレームを得意としない私は、どちらかといえばそんなイギリス人的考え方に共感した。

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そんなコラムの中でも、実はもっともインパクトが強かったのは、冒頭のHeinzのベークド・ビーンズだったりして。
彼女の友人(国籍は英国人ながら、ここでは米国人代表として登場)がベイクド・ビーンズの缶を開けたところ、変色した豆が二つほど紛れ込んでいたというところから話は始まる。
好きな人には大変申し訳ないのだが、私にとっては缶詰のベイクド・ビーンズは劣悪なる伝統的英国手抜きフードの代名詞。
くだんの友人、「子どもの夕食として」ベイクド・ビーンズの缶詰を開けているらしいが、子供の栄養の偏りを心配してしまう私はただのお節介なのだろうか・・・。

*原文にご興味がある方は、↓コチラへどうぞ。
http://www.ft.com/cms/s/0/5c831562-40bb-11dd-bd48-0000779fd2ac.html?nclick_check=1
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by canary-london | 2008-06-26 08:14 | culture
違う仕事をしている人には俄かに想像しにくいことかもしれないけれど、私の仕事は本業の金融もさることながら、平たくいえばコミュニケーション命の仕事である。
大局的には、「お金を必要としている人」(発行体=政府・政府機関・企業・銀行等)と「お金を出したい人」(投資家)を結びつけるのが私の仕事となるわけなのだが、日々のミクロの世界では、これは主として社内の「お金を必要としている人」に直接もしくは社内のDCM(Debt Capital Markets=資本市場部)と呼ばれる人々を通じて話すと同時に、「お金を出したい人」に直接もしくは社内のセールスと呼ばれる人々を通じて話をし、双方のニーズがマッチした際にはめでたくディール成立に至ることになる。
(実際にはこれにデリバティブをくっつけたりもろもろの作業が追加されるが、詳細は割愛。)

いきおい、一日の大半の時間がメールを書くもしくは電話で話すという作業に充てられることになる。

もちろん重要なトピックのときには電話に頼るものの、スピード重視のときにやはり重宝するのはメール。
以前にX1Blackberryといったトピックでも何度も書いているが、メールがなければ一日始まらない。
明けても暮れてもBlackberryで会社のメールをチェックしているのはやや寂しいが、仕事と性分なので仕方がない。

メールを書くという作業においても、日本語と英語という言語の差を日々感じる。
仕事柄大部分のメールは英語なのだが、東京オフィスや日本人の友人とやりとりする際には日本語に切り替え。

そういったときにどうしても感じざるを得ないのは、「日本語でのタイプは時間がかかる」ということ。
思考プロセス自体に要する時間があまり変わらないとすると、26文字のアルファベットに集約される英語で打つ方が何倍も速い。
これは別に自分がバイリンガルであるなどと言おうとしているわけではなく、目上の人への手紙ならともかくとして、要件を伝えることが第一義的な目的である仕事のメールにおいては、丁寧であることはさほど要求されないので思考プロセス自体が短縮される。
これに加え、英語では比較的フォーマルな言い回しとカジュアルな言い回しの差はあれど、日本語のように敬語や謙譲語などの使い分けも要求されないので、気取った文章を書こうとするのでない限り、頭に浮かんだ言葉をそのまま連ねていけば大体においてそれで事足りるのである。

一方の日本語では、相手が自分より目上か同等か目下かによって言葉のニュアンスが変わってくることに加え、何といっても厄介なのは漢字・仮名の変換。
英語では綴りのミスがあったらご愛敬で済むが、漢字だとある程度のものはやはり変換せざるを得ない。
パソコン世代の我々たるもの、頭で考えて漢字を書くことが益々少なくなるなか、
「はて、この漢字ってこれで良いんだっけ?」
と手が止まることもしばしば。
もうひとつの問題としては、パソコンで提示される変換候補自体かなり大きくズレていることもある。先日など、「以心伝心」と書こうとして変換したところ、「ISIN電信」が第一候補として出てきてびっくりした。外資系企業の持っている日本語変換ソフトの限界なのかもしれないが・・・。

・・・というとまたぞろ今度は日本の言語批判のようにとられるかもしれないが、むしろ逆。膨大な量の漢字と仮名を組み合わせて成り立つ日本語という言語は、その組み合わせが織りなす独自の繊細さがある。
ひとつの言葉を幾ら長くしたところで、所詮26文字に集約されるアルファベットで成立している大概の欧米言語は、使い勝手という意味では日本語を遙かに超越する一方で、言語の深さという意味では日本語に遠く及ばないと思う。
今年は千年記念で話題を集める「源氏物語」を初めて通して読もうと思い立ち、最近鞄に持ち歩いて亀ペースで読み進んでいるのだが(当然ながら私が読んでいるのは瀬戸内寂聴さんによる現代語訳。高校時代を日本で過ごしていない私には古文の能力は皆無に等しい。)、随所に登場する和歌を眺めるにつけても日本語の美しさに改めて感動する。

・・・といっても、仕事はやはりスピード命。
日本人の同僚のメールに対しても8-9割方英語で返信しているので、客観的にみるとおそらく相当イヤなヤツなのだろうが、そんな背景があることをご理解頂ければ・・・と思う。
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by canary-london | 2008-05-03 11:44 | culture

Hello, gorgeous!

日本と比べて、欧米では対人表現の仕方が仕草も言葉もとにかくダイレクトであるのは言わずと知れたこと。このブログでも、以前挨拶代わりのキスやハグというトピックを取り上げたことがあったように思う。

ちなみに、挨拶として交わすキスのプロトコルにも国・文化によって様々あり、英国では左右/右左の頬に一度ずつで済むが、同じヨーロッパでもオランダなど多くの国では左右左(または右左右。英国でもそうだが人によって始めるサイドが違い、これにはルールがないので何ともややこしい。)の計三回が当たり前。
業に入れば・・・で、キスひとつ取っても自然とその地のルールどおり出来るようになるにはそれなりの意識と訓練が必要。

そんな仕草に関する日本との違いに加え、最近言葉による表現の仕方の差というものを改めて感じることが増えた。
英語では、身内や親しい友人に対して、親しみや愛情を込めて’Sweetheart’, ‘Honey’, ‘Darling’などを連発する。対異性の場合は、夫婦間、親子間、彼氏彼女間などごく親しい場合に限定されることが多い一方で、女性同士の場合は(さすがに男性同士は言わない。ゲイ同士は言うのかもしれないが。)、ちょっと親しい相手だと、すぐに’Hello darling, how are you?’といった具合になる。

「夫婦間」という例に注目すると、例えば奥方から旦那に職場に電話が掛かってきたとする。
蛇足ながら、こちらの夫婦は本当に良く職場に電話を掛け合うと感心する。
日本の奥様は、昔ながらの発想で「神聖なる職場に電話を掛けて仕事の邪魔をするなんてとんでもない」というメンタリティーが支配的であるように思うが、こちらではそんな妙な遠慮は皆無。仕事が家族に優先されることはほぼないといって間違いない。

奥様からの電話に話を戻そう。
電話を受ける側にある男性が、奥様からの電話だといわれて通話口に出るなり、
‘Hi, sweetheart’なんて甘い言葉を掛けるのはごくごく当たり前の世界である。
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先日こんな一幕があった。
我がデスクの若手ホープで先日結婚したばかりのDの直通が鳴り、私の同僚の女性・Jが電話を取った。
Jは、別部署の秘書の女性からのDへの電話をDの奥様からと勘違いし、「奥様よ」といってDを促したところ、Dはといえばごくごく普通に’Hello, gorgeous ’と電話口へ。
お互い相手が誰か分かった途端に、電話を掛けてきた秘書とDの二人ともがえらく気まずい思いをしたという、コメディ映画にでも使えそうなワンシーンだったのである。

こんなちょっとした事故もあるものの、個人的には、このように相手を讃える一言をさりげなく言えるのは素晴らしいことだと思う。
特に、男性が女性に言う場合。
何だかんだいって、女性は’Hello, gorgeous ’なんて言われて悪い気はしない。
それが、四六時中顔を合わせる旦那の台詞であったにせよ、ほぼ社交辞令であまり意味のある二言ではないと分かっていても、言われた側としては自然と気持ちにハリが加わるものだと思う。
日本の男性諸君も、女性の喜ぶ一言をさりげなく言えるよう、是非とも研鑽を積んでほしい。

とはいったものの、実のところこの問題は、最近再三書いている英語という言語の特質に直結するのだろうと思う。
’Hello, gorgeous ’を日本語に直訳した場合、ニュアンスの差はあれど「よお、べっぴんさん」てなとこだろうか。
旦那が電話口に出ていきなりこれでは、気持ちにハリが加わるどころか百年の恋も冷めるかも・・・。
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by canary-london | 2008-04-18 09:10 | culture
最近日本語と英語という言語の特徴に関連するトピックを幾つか書いてきたが、それに伴って俄かに注目している題材がある。
それは、言葉遊び。
具体的にいえば、アナグラム、回文、パングラムなど。
発見というほどのものではないのだけれど、実はそれぞれの言葉遊びにも言語による特徴が現れるので何とも不思議。

アナグラムというのは、ある言葉やフレーズの文字を並び替え、全く異なる意味の言葉やフレーズにしてしまう言葉遊び。
ダ・ヴィンチ・コードの著者・Dan Brownが同小説でも好んで使用したため、若い世代における認知度も結構高まったのでは。

回文は、説明の必要もないけれど「上から読んでも下から読んでも同じ」の言葉や文章のこと。
「越智通雄」のポスターが昔私の選挙区にたくさん貼ってあった頃、子供ながらに「上から読んでもおちみちお、下から読んでもおちみちおなんてスゴイ名前をご両親も考えたものだ」と感動した。

パングラムは、実は英語と日本語で若干ながら定義すら異なるらしい。
共通するのは、「全ての文字を最低一度ずつ使用する文章」(英語の場合はアルファベット、日本語の場合はもちろん仮名)という点。
だが、英語の場合は文字を最低一度使用してさえいれば重複は許される一方、日本語では「いろはにほへと・・・」に代表される文章にみられるとおり、原則として重複は許されない。

日本語と英語の決定的な違いは、文法は無視して文字だけを考えた場合、英語における母音(vowel)が基本的にはa/e/i/o/u(時にyも加えられる)の5音しかない一方、日本語においては「か行」以下すべての文字が「あ行」の5文字のいわゆる母音(日本語で母音といっているのは、英語における母音の概念を無理やり持ち込んだだけなのだろう)と組み合わせたものとなっているため、自然と日本語においては「あ行」の5文字の登場頻度がそんなに多くならないことなのだろうと思う。
一方で英語においては、子音は子音だけでの発音が困難になるため、どうしてもa/e/i/o/uの登場回数が多くなってくる。

アナグラムと回文とパングラムを比べると、日本語と英語の特徴が垣間見えてきて面白い。

結論からいうと、こういうことになる。
アナグラムは英語向きだが日本語には不向き、回文は日本語向きだが英語には不向き、そしてパングラムは上記定義にあるとおり、両方の言語で可能ではあるものの、母音と子音の割合のためにそれぞれの言語で若干違うものとなってくる。

アナグラムから見てみよう。
英語世界においては、「ダ・ヴィンチ・コード」の例を出すまでもなく(ちなみに今回少し調べるまで知らなかったことだが、Da Vinci Codeは‘Candid Voice’のアナグラムとなっている)、日常世界で気の利いたアナグラムに多数出会う。
‘George Bush’が‘He bugs Gore’になってみたり、時事ネタにも絡めて実に面白い。
紙と鉛筆を持ってちょっと頭を捻るとあるフレーズが別のフレーズとなるのでアナグラムは割合身近な遊びであり、私の所属する部署で年に一度クリスマスの恒例行事として会社の他部署に「シンジケート・クリスマス・クイズ」として出す20問ほどの質問の中でもアナグラムはレギュラー選手。

余談になるが、昨年のシンジケート・クイズの中で思わず笑い転げてしまったのは以下だろうか。英語では固有名詞も言葉遊びとしてしまうことが多い。
個人に対する中傷のつもりは毛頭ないが、弊社にフランス人のセールスでOlivier Degaという男性がいる。
彼はいたって真面目で一生懸命なセールスマンなのだが、その真面目さゆえ時折我々シンジケートが手を焼くことも。
そんな彼の名前の文字を並べ替えると、‘I give ordeal’(私は(人に)試練を与える)となる。
もうひとつ、固有名詞で秀逸と思ったのは、我々の競合他社であるMorgan Stanleyの名称の並べ替え、‘Monetary Slang’(金融の俗語)だろうか。

次に、回文。
回文(英語ではPalindrome)というのは英語ではあまり名文がないのが現実。
一方で、日本語だと回文というのは作りやすいらしく、回文に特化したウェブサイトも多数ある。
因みにかなり充実している↓のサイトの中で、私が最も感心してしまったのは、
「うかつにダムをひく、国費を無駄に使う」であった。
回文

今回のトピックを書くきっかけとなったのは、英語の有名なパングラムである
‘The quick brown fox jumps over the brown dog’。
英語圏で教育を受けたにも拘らず恥ずかしながら私は知らなかったのだが、こちらではコンピューター上のフォントの正確性などを試すにあたり、この文章を使うことが多い。

英語では上述の母音・子音の制約から重複が許されるが、日本語のパングラムは「一文字は一度しか使用しない」というルールをストイックに守っている。
現代語も含め、日本語のパングラムというのは「いろはにほへと・・・」に加えてこんなにあったのだと感心したのが↓のサイト。
パングラム


言葉とは、難しくまた楽しいものだなと思う週末の昼下がりの一幕。
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by canary-london | 2008-03-30 02:59 | culture
金融機関に勤める人には紹介の必要もないが、Bloombergという金融機関専用の端末がある。といっても、ハードウェアが独立していた昔と違って今ではオフィスのPCにインストールしデスクトップから自在にアクセスできるので、「端末」という呼び方は既に適切ではないのかもしれない。
Bloomberg社は、言わずと知れた現NY市長のMichael Bloomberg氏が1981年に創立。
19世紀半ば創業のロイター社などより余程歴史が浅いにも拘らず、弱者の淘汰により会社数の減少傾向が著しい昨今、一人勝ちの様相が強い。

私と同業界の人は、部署にもよるもののそんな人が多いのではないかと思うけれど、私ははっきりいってBloombergなしでは一日たりとも仕事が出来ない。
一連の金融情報や分析機能・計算機能もさることながら、非情に重宝するものの一つがメッセージ機能、つまりメール機能である。
Bloombergのユーザー同士の場合、通常のメールと違って、相手がその日に出社しているかどうか(もしくは自宅や外出先からログオンしているかどうか)メールを送る前に把握でき、メールを送った後も相手が開封したかしていないかが一目瞭然というスグレモノである。最近ではこの「ログオン状態」を示す機能が進化し、今この瞬間デスクについているかどうかさえも分かるようになっている(自分の状態を細かく把握されたくない人には、「ログオン状態を隠す」という選択肢もある)。

まっとうな使い方をしてもこの上なく便利なBloombergなのだが、本来の機能とはあまり関係のないところで、私の小さな楽しみがある。
それは、ログオン時の初期画面に載っている毎日違った一言(ことわざ、世界各地の言い伝え、格言、偉人の名言など内容は幅広い)。
毎朝これをチェックするのが楽しく、中には誰でも知っているような有名なものもあるが、「ふーむなるほど」と思うものも数多い。
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2007年に私が思わず書き留めてしまった「ヒット作」の厳選版は、以下の二つだろうか。
一つ目は、リンカーン元米大統領による名言。
‘It’s not the years in your life that count. It’s the life in your years.’
日本語訳するのが難しいが、いつもどおり超意訳すればこんなところだろうか:
「人生で重要なのは生きた年数ではなく、その中で何を成し遂げたかだ。」

そして二つ目は、チャーチル元英首相の言葉。
‘We make a living by what we get, but we make a life by what we give.’
同様に超意訳:
「我々の生活の糧となるのは何を稼いだかだが、人生の糧となるのは人に何を与えたかである。」

いずれも各人の徳を感じさせる素晴らしい言葉だと思うが、ここまで書いたところで、やはり思考は再び英語と日本語の性質の違いに向いてしまう。
先月のエントリとなる「・・・で、今のマーケットを一言で言うと?」でも書いたことだが、英語は似た言葉を使った言葉遊びや韻を踏む(rhyme)ことが格段にやりやすいため、フレーズとしてすっと流れ、聞くにも心地良い。
一方の日本語は、もちろん自分の翻訳能力が足りないことが原因とはいえ、どうも流れない。何かまどろっこしい。硬い。

やはりこのような使い勝手の良さが、英語という言語の持つ強みなのだろうと改めて感じる。

蛇足になるが、もう少し最近の「今日の一言」にはこんなものがあった。
中世のユダヤ人の道徳を初めて系統立てて研究した学者・Israel Salanterによる一言。
"Writing is one of the easiest things; erasing is one of the hardest."
「文章を書くのは最も易しいことの一つだ。一方、一度書いたことを取り消すのは最も難しいことの一つだろう。」
Salanter自身は19世紀に活躍した人だが、現代への関連性は高い。
ブログという媒体を通じて、我々シロウトの物書きにも自由に物が書ける時代だけに、思わず背筋が伸びた一言だった。
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by canary-london | 2008-03-16 11:32 | culture
日本語と英語に関する考察はこのブログでも良く取り上げるトピックのひとつだけれど、最近気になる英語のフレーズが幾つかある。
そのうちの一つは、
‘Do you know what I mean?’

このフレーズ、使う人はかなり高い頻度で使う。
初めは米国人特有の性質かと思ったが、少し注意して耳を傾け始めると、そうではないことに気づく。
イギリス人でも、多用する人は実に良くこの言葉を発する。
当然といえば当然なのかもしれないが、英語を母国語としない人になると使用頻度が大きく下がる。
また、これは偏見か或いはたまたまサンプルが偏っているのかもしれないが、男性よりも女性の方に良く使われるように思う。

‘Do you know what I mean?’
・・・直訳すれば、
「・・・(私の言っていることの)意味、分かる?」ということになるが、典型的なRhetorical Question(修辞疑問)であり、別に相手にYES/NOの回答が期待されているわけではない。
むしろ、何か自分が強く思うことについてひとしきり意見を述べた後にそれを強調する象徴的な意味合いで使うことが多い。
(その観点からは、仮に訳も分からず「NO」とでも答えようものなら、興奮している相手を余計に刺激し非常に寒い会話となることは間違いない。)

あくまで個人的な感想だが、私はこのフレーズはあまり好きではない。
正直品がないと思うし、あまり教養を感じさせないし、文字通りの意味は少ないとはいえ、会話をしている相手に対する思いやりや気遣いも欠けるような印象を与えがちだ。

自分への運用は、英語と日本語の両方ある。
英語に関しては、当たり前ながら「自分では使わない」ようにすること。
実はこれ、英語でこのフレーズを口癖としている人が周囲に大勢いる場合、意外に強靭な意志が必要。
良く会話をする相手の口癖というのは伝染るものであり、概ね迎合的で周囲の影響を受けやすい私は、特に他人の口癖が自分でもクセになってしまう傾向が強い。
勿論、良いものや新しいものはどんどん受け入れたいと思うが、合わないと思うものはきっぱりと否定しなければ。
他人様の、それも良い大人の口癖に難癖を付けるつもりも筋合いも毛頭ないけれど、少なくとも自分では使わないこと。
どうしても使いたい局面では、Rhetorical Question形式ではなく、コメントの後に”…if you know what I mean”と付けた方が印象が大幅に和らぐため、自分で稀に使うケースでは、このように文章の末尾に持ってくるようにしている(といっても、ニュアンス自体は同じではなくなる)。

一方で、実は日本語にも影響があったりする。
海外に長く暮らす日本人なら誰しも経験することだと思うけれど、英語のフレーズをそのまま日本語に直訳して話している自分に気づくことが時折ある。

「・・・(私の言っていることの)意味、分かる?」
日本語で言うと、英語よりもさらに強い言い回しとなってしまう。
先日一度つい自分で使ってしまい、幾ら相手が親しい友人だったとはいえ、言った瞬間に自分の方が驚いてしまった。以後自分では絶対に使わないよう心がけている。

言語とは不思議なもので、あることを言うのに適した言語とそうでない言語があるように思える。
厳密に言うと、「あることを言うのに適した言語と更に適した言語」ということだろうか。
私がロンドンで過ごした高校時代のクラスメートにブラジルで育ったイタリア人の女性がいたが、環境が環境だけに、彼女および彼女のお姉さんは、ブラジルの公用語であるポルトガル語・イタリア語・英語のトライリンガル。クラスメートとは普通に英語で会話をし、姉妹で話すときにはポルトガル語、しかし喧嘩となるとイタリア語が飛び交う不思議な二人であった。それを見るたび、やはりイタリア語は言語として勢いがあり、言ってみれば「ケンカ向き」なのだろうな、と感じたことを思い出す。

各言語の特徴を掴み生かしつつ、常に印象の良い話し方をするというのは永遠のテーマになるのだろうと思う。
自分は二つの言語しか出来ないが、世の中のトライリンガルやそれ以上の言語を操る人々の頭の中は一体どうなっているのだろうか?一度覗いてみたいと本気で思う。
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by canary-london | 2008-03-08 03:19 | culture
西洋人のナイフ・フォーク至上主義には、時々驚かされる。
彼らにしてみれば、物心ついたときからこればかりやっているのだから当たり前なのだが、箸カルチャーどっぷりの我々からすると
「うーん。それって、あまり機能的ではないんじゃない?」
と思うこともしばしば。
まあ彼らからみれば、箸を自在に操る東洋人こそが驚愕と羨望(?)の対象なのだろうが・・・。

私のチームメイト兼上司にあたる女性はアメリカ人なのだが、日々のデスクランチでたまに日本食やチャイニーズのtake-awayなどをとると、慣れない箸と格闘しつつあらん限りの集中力を眼前のサラダに注いでいる彼女から、
「何でアンタ、豆のサラダなんか箸で食べられるわけ?しかもEメールをさばきながら片手間で食べてるなんてズルイっっ」
と恨めしそうな視線が飛んでくる。

勿論ヘルシーなアジアン・キュイジーヌの台頭により、箸を巧みに操る西洋人も非常に増えたので、上記のようなエピソードは昔ほど一般的ではなくなったけれど。

西洋人はとにかく、メイン・ディッシュを食べるときには、概ねそれが何であってもナイフとフォークのペアで立ち向かう。
スプーンという器具は、彼らにとっては大きなものはスープ用、小さなものはデザート・コーヒー用であり、メインを食べるときには基本的にはあまり登場させない。

この点、箸しかなかった時代には汁物は椀に直接口をつけてすするなど柔軟に対応していた日本人の方が、西洋式のカトラリーが入ってきた現代においても実用性重視かも?

今回帰英にあたってそんなことを改めて感じたきっかけは、飛行機で通路を挟んで隣り合わせたイギリス人のオバサマ。
三つのメインのチョイスの中に「日本式カレーライス」というものがあり、彼女も私もそれを注文。
私にいわせればこんなもの、日本のカレーライスなのだから(何ちゃって日本食の機内食だけに、ご飯に対してカレーが少ないとか、ちょっとした違いやら不満やらはあるが・・・)、スプーンで食べるのが当然。
食べ進むうちに贅沢になってきて、福神漬が欲しくなってきたりして。

一方の彼女は、ナイフとフォークであくまでエレガントにチキンを切り分けて口に運ぶ作業を淡々と続けている。
並んで食べているのをハタからみると、とても同じものを食べているようには見えないだろう。

イギリスにいて、「何でもあり」日本人の実用型カトラリー術をもっとも強く実感するのは、ピザを食べるときだろうか。
私は、ピザについては何が何でも「手で食べる」派である。
ビールやコーラを片手に、手で掴んで食べる方が絶対に美味しい。・・・と、思う。
なので、ピザ屋に入って(これまた日本では考えられないぐらいピザ屋が多く、一般人はかなりの頻度でピザ屋でディナーを取る)、全員が何となく神妙な面持ちでナイフ・フォークをキコキコやっている姿には、何となく違和感と笑いを覚えてしまうのである。
「行儀が悪い」とお叱りを受けるかもしれないけれど、ピザ発祥の地であるイタリアの人々がそうしているのだから、大目に見てもらおう。
何はともあれ、美味しく食べるのが一番!

そんなことをぼーっと考えつつ機内誌を眺めていると、創業170年の歴史を誇るフランスの銀製品の老舗・クリストフル社の日本のCEOであるイブ・アルマニー氏のインタビューが目に入る。
正に私が考えていたようなカトラリーに絡めた西洋と東洋の融合のようなことについて話をされており読み入ってしまったが、そんな彼のイチオシは、銀製の「マイ箸」。
曰く、「アジアの国の料理を食べる時は箸を使ったほうが美味しいと感じる」とのことで、在日30年を超える氏の親アジア魂には感服する。
が、それにしても銀製のお箸なんて重いし滑るし高級だし・・・と使う前から敬遠してしまうのは、自分の貧乏性ゆえか?
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→ クリストフル社の銀製「マイ箸」
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by canary-london | 2008-01-16 10:27 | culture
イギリスという国に暮らしていると、英国民の「ナショナリズム」のような感情に遭遇することは実に稀なので、英国にナショナリズムという概念はないに等しいのではないか??と感じるようになる。
もちろんそれは、自分の国を愛していないということではなくて、その姿勢や表現方法が、所謂「愛国主義者」から想像するものと大きく異なるだけなのだろうと思う。
使い古された議論ではあるが、この点で好対照を成すのが、米国の「コテコテ」のナショナリズムである。現在のブッシュ政権のもとでは、この「コテコテ」度がさらに増幅されている感があるが、教育の賜物というべきか、米国民の中には実に分かりやすい「愛国心」が、体の隅々にまで流れているのだ(そういえば、NYで過ごした小学生時代は、意味も分からず毎日米国旗に敬礼しながら国家を歌っていた)。

米国での同時多発テロ・9・11(6周年の今日言及しているのはただの偶然なのだが)と、ロンドンでの7・7に対する両国民の反応・対応にみるこの違いを、以前ごく私的且つカジュアルな文章にまとめたので、いずれ発掘することがあれば、ここでもご紹介するかもしれない。

いつもながらに冒頭から脱線したが、英国民の「ナショナリズム」についてであった。
この週末にひょんなきっかけから行ったイベントが、実のところ、ロンドンに来てから(高校時代も通算して5年強)、もっとも英国的ナショナリズムを感じた行事だった。

そのイベントとは、「Last Proms」。
二ヶ月近くにわたるクラシックのコンサート・BBC主催による「Proms」の最後の夜である。
(この場を借りて、一緒に行こうと誘ってくれたAさん、そして入手困難なチケットを二人分快く譲って下さったO氏に深謝致します。)

Promsについては、昨年本ブログでも紹介したことがあるが、正にロンドンの夏の風物詩と呼ぶに相応しい。
主会場となるRoyal Albert Hallは、コンサート・ホールというよりも、ドーム型の球場のような風情で、音が拡散してしまうため、音質は良いとは言い難く、それを理由に「Promsへは行かない」主義を固持している人もいる。
そういう面はあるのだが、Promsは、とにかく「お祭り」なのだ。
難しいことは考えず、楽しければ、まあいいじゃない。

フタを開けてみれば、「楽しければいいじゃない」の集大成のようなイベントだった。
演奏者も、男性は白のタキシード、女性はイブニングドレスで登場。
聴衆も、大概は英国旗をあしらった思い思いの衣装を身にまとう(私の隣のオバサマは、お世辞にもスレンダーとはいえないボディをバド・ガールよろしく全身ユニオン・ジャックのボディコンドレスで包んでいた)。
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クラシックのコンサートというと、静寂が基本的ルールだが、この日だけは違う。
演奏中こそ静かに聴いているものの、曲の合間には、風船やらクラッカーやら、ありとあらゆる物が宙を舞う。
演奏者も実にノリが良く、この日はソプラノとして超大物のAnna Netrebko(アンナ・ネトレプコ)が登場したが、歌いながら赤いバラと投げキッスを配り歩く大サービスぶり。
エンターテインメントとしても存分に楽しめた。

で、英国的「ナショナリズム」。
私も日本人の友人と共に、服装こそ普通だが、会場の外で売っている小さな英国旗を買って臨んだ。
後半にかけては、前半を更に上回る盛り上がりぶり。
お決まりの、Elgarの「威風堂々」や、Henry Woodの「Rule Brittania」、最後を締めくくる国家斉唱となると、聴衆全員が総立ちで、国旗を振りながらの大合唱となる。

確かに普段のPromsに比べて生粋の英国人が多い感はあるものの、よく見ると、我々のような日本人を含め、様々な国籍の人が旗を振っている。
更にいうと、ユニオン・ジャックがルールということでは決してなく、この日の指揮を務めたJiri Belohlavek(イルジー・ビエロフラーヴェク)の出身地であるチェコの旗や、理由は不明だがドイツやオーストラリア、果てはどこのものか見当もつかないような旗もちらほら。
且つ、会場が一体となって、英国を象徴する歌を大合唱しているのは、何とも不思議な光景。
これが、緩やかなる英国のナショナリズムかなあ、などと感じた次第だった。

Belohlavekは、今回が初の「Last Proms」の指揮者だったが、独特な雰囲気を適度に楽しみつつ、そつなく大役をこなしていた。
スピーチで、Promsのことを「world’s biggest and most democratic music festival」(=世界で最大且つもっとも民主的な音楽祭)と形容していたのが印象に残った。

それにしても、この記念すべきイベントで俄かナショナリストになるべく、先の3曲の歌詞ぐらいは暗記していくべきだった・・・と帰りの道すがら反省。
決して排他的にならないナショナリズムがまかり通る英国という国をまた一段と好きになった夜の幕は、「蛍の光」(“Auld Lang Syne”)の合唱で閉じていった。
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by canary-london | 2007-09-12 03:39 | culture