ロンドンより愛を込めて
2010-11-01T07:27:20+09:00
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ロンドン生活開始から4年強経過。あこがれの田舎暮らしも敢行!このまま骨を埋める展開か??インベストメントバンカー日々迷走中。
Excite Blog
Surreyの新居とOliveのこと
http://canaryldn.exblog.jp/14897009/
2010-11-01T07:27:20+09:00
2010-11-01T07:27:20+09:00
2010-11-01T07:27:20+09:00
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diary
今年の1月末、Surrey州の田舎に引っ越した。
英国ではよくあることだけれど、昔貴族の邸宅・いわゆるマナーハウスであった18世紀後半の建物の管理が不可能となったため、30年ほど前に居住用に分譲したもの。
ちなみに、19世紀にここに住んだどこぞのお妾は、移り住むなり「狭すぎる」と三行半を突き付けたとのことで、その同じ御屋敷を24分割して住んでいる我々の立場はどうなるのだろうか。。。
ちなみに英国で昔貴族の邸宅であった建物は、現在では我が家のように分譲して居住用と割り切るもの、学校・病院・美術館など公共の建物として利用されるもののほか、豪華なホテルに姿を変えたものも多い。
夫も私も子供時分は東京の都会育ち、直近はロンドン暮らしが長く、二人してれっきとした「英国の田舎」暮らしに長く憧れた結果として今の家を住処として選んだ。
ともあれ、Olive。
少し前に、「10月はお互い独身だね!」などと私の夫の日本出張を気遣って彼女が言ってくれたことをきっかけに、マナーハウス中心に位置する彼女の家へアフタヌーン・ティーに招いてもらった。
83歳とは思えないほど背中がしゃんとしており、手伝おうとする私の手を制して美味しいアール・グレイを淹れてくれた。
5年前に亡くしたご主人のことや、初めて聞かされる30年前に交通事故で亡くした一人娘のこと。
Oliveは一人っ子でご主人も一人っ子であったこと、そして孫を授かる前に一人娘を亡くしてしまったために、彼女には親戚というものがない。
娘のことを話すとき、感情的になっても不思議でないと思うのに、彼女は涙など浮かべることなく、聞いているこちらの方が涙が出そうになって困ってしまった。
「Olive」=オリーブの木は、平和・英知の象徴。
豊穣も意味する。
聖書にも30回以上登場するOliveを、聖なる植物として崇める向きも多い。
彼女のキャラクターは、正にそんなオリーブの木のように清らか。
余計なお世話かもしれないけれど、日本を離れて久しく、数年前に両方の祖母を亡くして以来、「おばあちゃま」不在だった自分にとっての新しい「おばあちゃま」として、Oliveを大切に大切にしようと思った午後のひとときだった。]]>
ビッグイシューと尋ね人と独り言
http://canaryldn.exblog.jp/13189799/
2010-03-24T10:05:01+09:00
2010-03-24T10:05:08+09:00
2010-03-24T10:05:08+09:00
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culture
前回書いた「地域のコミュニティー誌」的な部分なのかもしれないが、巻末の宣伝部分に掲載される諸々の広告にも国による違いが表れていて興味深い。
英国版ビッグ・イシューの巻末部分に非常に多いのが、「XXを探しています」という尋ね人の広告。
ためしに日本版を注意深く繰ってみたが、こんなセクションは見当たらない。
先日、その‘尋ね人’のセクションにこんなものがあった:
Vulnerable missing person (Jane Smith (注: ここでは仮名を使用))
She is 75 yrs old and has been missing since 28th June.
[Jane] is approx. 5 foot 5 and was wearing....., she suffers from dementia and may easily look confused or talk to herself.
得意の意訳をするとこんな感じだろうか。
「尋ね人(彼女は助けを必要としています):ジェーン・スミス(仮名)
今年75歳となる彼女は、6月28日以来行方不明となっています。
ジェーンは身長164-165センチ程度、行方が分からなくなった時点ではXX色のXXを身につけており・・・・、彼女は認知症を患っており、独り言が多い。」
・・・意訳しながら、思わず笑ってしまった。
などと言うと不謹慎きわまりないのだが、もちろんその笑いはここで描写されている老女やその家族に向けたものではなく、ただ単純に、描写だけを見た場合、あまりにもぴったり自分に当てはまるからだ(余談ながら、私は身長も約163センチなので、5ft5に大体合致する)。
ーティーネージャーの頃からか、やけに独り言が多い。
大学時分、何かのきっかけで一人暮らしの友人とそんな話題になり、「自分は気付くと常に独り言をいっている」と話したところ、いたく変人扱いされた。
このような性癖は簡単に治るものではないらしく、今も私はとにかく独り言が多い。
職業柄、相場が思うように動かないときに悪態をつくのは私の周囲の面々も含めて決して珍しいことではない。とはいえ私の場合、相場から離れたときでも気づくと何気ない一言を口に出していたりするので、予想外の場所で同僚に出くわしたりすると、えらくきまりの悪い思いをする羽目になる。
日本語で何かつぶやいていれば相手は胡散臭そうな視線をこちらに送るだけだが、英語でくだらないことをぶつぶつ言っているときには意味まで気取られるので、恥ずかしいことこのうえない。
これがあと30-40年もたって、自分の外見にも明らかに衰えが生じたとしよう。
もしかしたら、「ああ、貴女はあのビッグ・イシューの・・・」などといわれて、保護される羽目に陥るかもしれない。
気をつけねば。
といっても、「気をつける」=「独り言を言う癖を治す」なんだか何なのだかわからないというのが正直なところなのだが(笑)。]]>
「小ぎれい」な日本と日本版ビッグイシュー再論
http://canaryldn.exblog.jp/13027186/
2010-03-06T21:30:25+09:00
2010-03-06T21:30:26+09:00
2010-03-06T21:30:26+09:00
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culture
英国暮らしも足かけ5年近くになり、普段日本に暮らす日本人からみると何でもないことにも新鮮な驚きがある一方で、こちらに引っ越してきた当初はいちいち「へえー、日本(東京)ってすごい!」と英国(ロンドン)との対比で感動していたことについては目が慣れてきたのも事実。
いつ戻っても、街のどこかに「出来たてです!」という湯気でも出そうな新しい高層ビルが建っていることにも慣れたし、レストランにしても速いスピードで動く東京という街の最新情報を把握するのはアウトサイダーには不可能なので、食事の際のお店選びは例外なく東京在住の友人に頼るなど、最近すっかり怠け者になってしまった。
東京という街を表すに相応しい形容詞は・・・と考えると、改めて「小ぎれい」という言葉がマッチするな、とこの数回の帰国で感じた。
若い女性の身なりもそうだけれど、若い男性の外見はさらに違う。
まず、皆一様に細い。
英国人の男性(ロンドン在住の人ということなので必ずしも英国人ではないが)だって長身・スリムでスタイルの良い人は多いと思うが、日本人の男性のそれは、何となく外から押し付けられたような、申し訳なさそうな感じが漂うと思うのは私だけだろうか。
言ってみれば、自分の目指すクールな芸能人の体型とファッションに自分を当てはめようとしているかのような。
細身のジーンズに洒落たバッグ。
アーティスト然とした帽子。
綺麗に剃り整えられた眉。
出発前に成田空港で航空会社のラウンジに入ると、数々のおつまみと一緒に2cm四方ぐらいにカットされた美しいサンドイッチが並ぶ。正方形にカットされたサンドイッチ自体、ロンドンでは洗練されたホテルのアフタヌーンティーで供される以外にはまずお目にかかれない。(スーパーに陳列された三角サンドは、一様に‘食パンを切ったままの姿で何か文句ある?‘とでも言いたげだ。)
・・・すべてのものが、「小ぎれい」。
渋谷の公園通りを歩いていたら、日本版ビッグイシューを売っていた。
あいにく三枚しか持っていなかった百円玉とあらんかぎりの小銭を出して買い求めたのだが(高飛車なつもりはないのだが、私はビッグイシューを買うときは常に定価よりもう少しだけお金を払って買うのだ)、ビッグイシューの販売員までもが何だか清潔感に溢れていて驚いた。
渋谷という場所柄もあるのかもしれないけれど、「貴方達って、ホームレスではないんだっけ??」と口にできない疑問が湧いてしまった。
久し振りにこの話題になったので、脱線するがビッグイシューについて。
1991年に英国で生まれたビッグイシューの日本版創刊は、2003年9月。
私が渋谷の公園通りでオシャレなお兄さんから購入したのはミッフィーの表紙が印象的な126号だったのだが、今年83歳を迎えるオランダ人作家・Dick Brunaの愛くるしい「うさこちゃん」は日本で絶大な人気を誇るために表紙のイラストとインタビューを依頼した、とあった。
社会的に大きな影響力を持つ人にマーケティングしてもらう効果は果てしないのだろうということは容易に想像がつく。
発祥の地ということもあって日本よりも根強いサポーターの多い英国では、この雑誌は日本の隔週に対して毎週販売されるが、若者の支持も得るための努力なのだろうけれど、ポップ・ロックシーンの若い歌手などの登場頻度が非常に多い。ちなみに英国版ではミッフィーちゃんは登場していない。
ビッグイシューの中身をみると、日本版にせよ英国版にせよ、地域のコミュニティー誌的な色彩も強いため、その土地に合わせて表紙や中身を変えて当然なのだろうと思う。
件の日本版126号の読者投稿欄には、「石田衣良がいつも買っていることを知って勇気を出して買いました!」という初々しいティーネージャーのコメントが掲載されていたけれど、若者に社会に対する意識を芽生えさせるきっかけとなれば何でも良いのだろうと思う。
最近の幾つかの号では、ポップグループのChemistry、俳優の松田龍平やタレントの笑福亭鶴瓶、ミュージシャンの坂本龍一など、多様な分野で活躍する日本人がビッグイシューという雑誌の宣伝に一役買っている。海外の俳優や歌手のインタビュー記事を目玉としている号も多いが(ちなみに最新版は映画監督のウディ・アレン)、やはりより身近に感じられる日本人の影響ははかり知れないのだろうと思う。
毎週発行で日本より12年先輩にあたる英国は今週発売で887号となった一方、日本版は138号。
日本版にも是非ともモメンタムを継続してほしい。]]>
イギリスと傘
http://canaryldn.exblog.jp/12964561/
2010-02-27T21:22:53+09:00
2010-02-27T21:22:54+09:00
2010-02-27T21:22:54+09:00
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culture
いきおい日常生活は非常に不便になるのだが、地球温暖化への警鐘ばかりが鳴らされる時代に「冬が冬らしく寒い」のはどこか安心する。
同じ濡れるのに不思議といえば不思議だが、雪のときにはよほどひどい降りにならなければ傘をさす必要をさして感じない一方、突然の雨には手をやく。
「雨が降っていれば傘を置いて出かけ、晴れていれば傘を持って出かけるように」などといわれるほど変わり易い英国の天候は今も健在。
英国人が傘をささないのはつとに有名な話だが、こちらは英国暮らしがいくら長くなっても、そぼ降る雨の中を傘なしで歩くことには一向に慣れない。(慣れというよりも、合理的か否かの問題のような気もするのだが・・・。)
傘をさすこと自体が少ないだけに、傘に対するこだわりがない。
先月のある日オフィスを出ようとすると、タイミング悪く激しい雨が降っている。
前述の気まぐれの天候のなか、折りたたみ傘は必須アイテム。デスクの引き出しに常備しているのだが、どうやらその日は家に置いてきてしまったらしい。
時間帯が割合遅かったため、オフィスには人影もまばら。
ふとフロアーを見回すと、よく話す同僚の隣のデスク(おそらくは彼のアシスタントのもの)の上に黒い小さな折りたたみ傘が。
持ち主は帰宅してしまっているのか休暇で会社自体に来ていないのか、明らかに今日戻ってくる気配はない。
他人の物を無断で持っていくのは気が引けるが、きっとアシスタントなら朝の出社だって7時半出社の私より遅いに違いないし、明朝返せばいいか。
・・・ちょっと拝借。
正直、「ラッキー」と思いながら会社を出たのだが、家の最寄り駅で地下鉄を降り、借り物の傘を開いてみてびっくり。
折りたたみ傘の生命線といえる、先端部分に傘の布地部分を引っ掛ける金具が2-3ケ所致命的に壊れており、傘としての体をなさない。
家まではせいぜい徒歩7-8分程度だが、終始傘の端を手で押さえながら歩く羽目になり、実に閉口した。
体半分ずぶ濡れになってやっと家に入ったときには、よほど捨ててやろうかといまいましさ一杯に使い物にならない傘を睨みつけたが、そこは他人のモノ。
水気を取って再びきちんと折りたたみ、翌朝彼女のデスクの上にそっと戻したのだが、彼女は果たして次回の大雨のときにもその傘を使うのだろうか。
・・・傘にこだわりのない英国人にしてやられた一幕だった。]]>
復活宣言
http://canaryldn.exblog.jp/12950808/
2010-02-26T08:01:39+09:00
2010-02-26T08:01:39+09:00
2010-02-26T08:01:39+09:00
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diary
プライベートがハンパなく忙しかったことは紛れもない事実なのだが、前回エントリから実に半年経ってしまった。
自分の身辺では実に色々なことが変化したので(願わくばよい方向に)、ここらでそろそろ復活宣言。
というわけで、デザインも一新してみました。
長らくご心配をお掛けしましたが、ゆるりとしたペースで溜まった思いを書いていきたいと思います。
今後とも宜しくお願い致します。]]>
イギリス人と食・パートX??
http://canaryldn.exblog.jp/11710674/
2009-08-11T09:13:42+09:00
2009-08-11T09:13:27+09:00
2009-08-11T09:13:27+09:00
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gourmet
・・・それにしても、「イギリス人と食」について書き始めると、ノンストップになってしまう。
「どこででもものを食べるイギリス人」は昨今のカナリーウォーフでも、オリジナルの記事を書いた2年前と変わらない勢いで生息している。
夏至の時期に比べるとかなり日が短くなったとはいえ、日中太陽の覗く日は気温も適度に上がり湿度も低いために実に快適な7-8月のロンドン(ちなみに昨年久し振りに8月初めに東京に数日間だけ一時帰国したのだが、「この暑さでは人格が歪むのも無理はない」と真剣に感じた)。
そんなお天気の良い日は、お昼時ともなると、会社の目の前にある広場中心に据えられた噴水の周りは、テイク・アウェイのランチを抱えて、食事と日光浴を兼ねる若者が圧倒的に増える。
この心理には実に共感。
自分もデスクべったりの仕事でなければ、近所で買ったサンドイッチやサラダを噴水の傍らで広げたい、と思う。・・・が、余程静かな金曜日でもない限り、そんな彼らを羨望の眼差しで見ながらいそいそとデスクに戻り、相場を見てディールをこなし、メールを書きながら無機質な一日二食目を終えるのが現実。
一方で理解に苦しむのは、こんな良い時期であるにも拘らず、ショッピングモールの地下通路にところどころ設置されたベンチで、同じようなテイク・アウェイをもそもそと頬張る輩。
行き交う人のごった返す雰囲気と話し声、自分の食事をいちいち覗き込まれる不快感、そして舞い上がる埃を考えると、悪いけれど狭いながらも「自分の空間」であるデスクで食べている自分の方がまだいいのでは、などと思ったりする。
ときに、私は雑誌では英エコノミスト誌と米タイム誌を愛読している。
「統計学」というものがいかに胡散臭くいい加減なものかというのはそれだけで二度でも三度でもトピックになってしまうようなお題だけれど、エコノミストやタイムが向学のためにもまた庶民の野次馬精神からしても面白いと思う部分の一つは、時事ネタと絡めた都合の良い統計学を引き合いに出して、それなりに読み応えのある記事にしてしまうところ。
「食にこだわらない英国人」の対極として、むしろ食にこだわり過ぎて笑い草とされるステレオタイプの国民はヨーロッパでは間違いなくフランス人なのだろうが、何気なくクレジット・クランチ全盛の今年2月のエコノミスト誌の記事を引っ張り出して読んでいたら、思わず笑みがこぼれてしまった。
・・・曰く、未曾有の不景気(2008年はレストラン・カフェの倒産が前年対比26%増加したとのこと)、そして公共の場における喫煙に対する取締強化を受け、従来型の「昼食は意地でもデスクで食べるのではなく外へ出掛ける」フランス人が劇的に減っているとのこと。オフィスから出て、近くのカフェやブラッセリーで’Plat du Jour’(「日替わり定食」が適訳だろうか?)を頼む人は、20代から30代前半の若い世代では減少が著しく、代わりに台頭してきているのが「サンドイッチ」文化。2008年のフランスにおけるサンドイッチ消費量は13億個と2007年を5,000万個上回ったなんてデータ、一見説得力があるようだが数値として信頼できるのだろうか??
記事から6か月が経過し、目先的にしても景気回復を示す兆候が世界のそこかしこで見られるなか、フランス人は再びブラッセリーで「本日の一皿」を優雅に楽しむようになっているのだろうか。是非とも継続的なデータをとってもらいたいものだ。
フランス人を揶揄したデータついでにもうひとつ引用すると、今年5月18日号のタイム誌。
OECDの実施した国別の生活・健康に関するデータによれば、先進国の中で一日・24時間の中でもっとも食べることに時間を割くのはフランス人で、平均して一日の2時間半程度を食事に充てる。これは、米国人やメキシコ人の倍以上に当たるが、より食べることに時間を使わない、且つワークアウト・フリークでもある米国人の肥満度の高さは前回書いたとおり。食へのこだわりと肥満は反比例の関係にあるのだ。
OECDのこの研究、食に留まらず多岐にわたる項目についてのリサーチが行われていて感心するが、フランス人は、1日の平均睡眠時間においても先進国の中で栄えあるトップを獲得。1日平均8.8時間の睡眠時間は、7.8-7.9時間程度と先進国最下位の韓国や日本を大きく上回る。週35時間の上限を課された労働時間といい、仕事では手を抜き(失礼!)、食を愛し恋に生きるフランス人は何と幸せなんだろう・・・と羨ましさを覚えずにいられない結果の数々なのだ。
とはいえ、統計学には限界がある。
私自身親しいフランス人は多数いるが、日々昼食はデスクでサンドイッチを齧り、睡眠は平均して5-6時間程度と平均的フランス人に比べてアンハッピー極まりない人も多数。
・・・これは国民云々以前に、投資銀行という業界の持つ特質なのだろうか。]]>
旅のメモ・北スペイン・パート2
http://canaryldn.exblog.jp/11656675/
2009-08-03T04:04:48+09:00
2009-08-03T04:04:48+09:00
2009-08-03T04:04:48+09:00
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travel
自分のブログを振り返ると、大体「良く書くトピック」に一つのパターン性があるように思う。アウトサイダーとして英国に暮らす者として、イギリス人を揶揄するようなトピックは多く、中でもイギリス人が如何に「食」に無頓着か、というのは以前も一度ならず書いたことがある。
現地の友人と話したOviedo三点目の感想=スペインの魅力も、食にまつわるものだった。
ご存知の人も多いと思うけれど、スペインという国はとにかく食事の時間帯が遅い。
スペインが植民地としていた中南米の国もその習慣を受け継ぎ、今でも食事の時間が全体的に後ずれしている国は多いようだが、我々の感覚からすると、とにかく食のサイクルが違うのだ。
平日のサラリーマンの生活は少し違うのだろうが、スペイン人の体内時計に合わせた過ごし方となる休日ともなれば、こんな感じだろうか。
起き出すのは9時か10時。
朝食なるものは、たっぷりのコーヒーと、ビスケットや菓子パンのようなものをつまむだけ。
お昼は、決して「正午に食べる食事」ではなく、2時か3時から4時か5時頃までゆっくりと時間を掛けて、タパスなど多様な料理をしっかりと、楽しく飲みながら食べる。
夕食は、地方にもよるが9時スタートは割合早い方で、レストランには10時や11時になっても続々と人が入ってくる。
前回書いた「同じ国とは思えないほどの多様性」は、料理についても言えること。
スペインというと、イベリコ豚やパエリアやトルティーヤなど、特定のものをイメージする人も多いと思うけれど、それぞれが地の利を生かし、海に近く新鮮な魚介類が手に入るところはシーフードも強烈に美味しいし、ハム=豚のイメージが強いかもしれないが、羊も牛も食べる。
といっても、スペイン人が牛を活発に飼育し食べ始めたのは1960年代からとのことで、今でもユーロ圏内では一人当たりの牛肉消費量が最も低い国、というので驚く。アステューリアスは、そんな中でも比較的牛肉を食べる地方といえ、高速道路を走っていても、ランドマークのようなTORO=雄牛の巨像が突然現れたり、牧場で乳牛や肉牛を見かけることも多い。
牛肉はともかく、スペイン人の食生活について。
そんなことで、一日三食、朝食を除いては力いっぱいの情熱を食べることに注ぐ。
といったところで、朝食だって、ヘルス・フリークのアメリカ人が見たら腰を抜かすような高カロリーのメニューだし、おまけにスペイン人は間食も楽しむ。
ディズニーランドでお馴染みの「チュロス」は、街中の移動式キオスクの定番。
ドーナツをチョコレートにディップして食べるなんて、考えただけで太りそう・・・。
なのに、スペイン人には意外と太った人が少ないというのが事実。
アステューリアスでは随一のビーチ、Gijonへも行ったのだが、友人Lの言うとおり、なるほど水着姿を見ても肥満体の人は非常に少数。
あれだけ遅い時間にしっかりした食事を取って、何で太らないワケ???
・・・という私の疑問に対するLの回答は、「それは食べることに興味があるからでしょ」という逆説的なもの。
肥満国家というと真っ先に思い浮かぶ米国(あれだけワークアウトに傾倒する国民なのに、データ上は国民全体の実に3割が’obese’=肥満)や、近年肥満児の増加が社会的問題になってる当地英国。
確かに、いずれの国の国民も誤解を恐れずにいえば、非常に食に無頓着である。
一言でいえば、味オンチ。
もちろん、ニューヨークやロンドンで働く一部の羽振りの良いインベストメントバンカー(‘羽振りの良い’バンカーなんて既に絶滅種ではあるが・笑)の中にはグルメを自称する人もいるが、国民全体としては、アメリカのレストランだってニューヨークなど一部の大都市を除いて出される料理は「質より量」を地でいっているし、英国の外食レベルはここ20年ほどで高くなったとはいえ言わずもがな。
飲み会の後の夜食(=日本人、というか東京在住サラリーマンで言うところのラーメン)がマクドナルドのファストフードというのが、食に対する興味のなさを物語っている。
私も昔のエントリで「公共交通機関の中で飲み食いする不思議なイギリス人」を取り上げたことがあるのだが、つまり一食一食の食事に対して重きをおかないということ。
食を愛するスペイン人・Lに言わせると、ファーストフードの多さといい、「食べることに執着がない」こと自体が肥満の大きな原因なのでは。
確かに、数年前にヒットした本「フランス女性は太らない」も、読んではいないが書評で見る限りは、「フランス女性は美味しいものだけ少量食べるので太らないんです!」という論調だったような気がする。
・・・本自体読んでいないのに僭越を承知で、当初はこんな本でベストセラーになるのなら、自分だって印税で食べていけるかも?などと苦々しく思ったのだが(笑)。
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旅のメモ・北スペイン・パート1
http://canaryldn.exblog.jp/11622176/
2009-07-29T03:47:00+09:00
2009-07-29T07:50:27+09:00
2009-07-29T03:47:29+09:00
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travel
こう見えてもメモ魔なので、香港にいた時に雑感をなぐり書きした紙があちこちに散乱して収拾もつかない状況なのだが、はっきりいって今香港の事を書く気にはまったくなれない。
5月22日時点では身も心もすっかり香港で、何なら「蒸し暑いけど所得税率も低いし日本にも近いし、香港移住計画も捨てがたいかも!」などと思っていたのだけれど、そんな感覚は6月から7月にかけてヨーロッパを駆け回った上、最近ではあるプロジェクトのためにロンドン郊外にも足を伸ばしているうちに記憶の彼方に綺麗に消え失せ、すっかりヨーロッパ人に戻ってしまった(笑)。
今日のところは、ヨーロッパでもっとも最近訪れたスペイン北部について少し書くことにする。4泊4日でやや強行軍だったのだが、以前から訪れたかったフランスとの国境Basque(バスク)地方、そして友人の住むAsturias(アステューリアス)地方の両方へ。
Basqueでは、奇を衒った外観で有名なグッゲンハイム美術館のあるBilbao(ビルバオ)を拠点として、北部のスペイン人および裕福な近隣の外国人が最高のビーチとして崇めるSan Sebastien (サン・セバスチャン)へ。
ここでは、ビーチを楽しむことに加え、バール・ホッピングと呼ばれるタパス・バーのハシゴに興じる。
正直なところ、ビーチはやはりスペインの南の方が圧倒的に質が高い。
海の色も、砂浜の白さも広さも、見渡す限り地平線という人類を大きく超越するような規模も。
最近スペインに「はまっている」と言ってもいいぐらい様々な場所を訪れているのだが、常にこの国に驚かされるのは、その多様性。
「同じ国??」と思うほど、気候も地元の人々の気質も、風土も料理も、場所によっては言語すらも全く違う。
今回スペインの北部に初めて行って最初に抱いた印象は、「緑が多い」というもの。
この時期から8月にかけては耐え難いほどの灼熱地獄となる南部アンダルシアの乾いた赤土とは全然違う。
それもそのはず、同じ国とはいっても、年間降水量が圧倒的に異なるのだ。
特にアンダルシアは、4月から9月にかけての夏場の降水量が極端に少ない。
その一方、北部はこの時期でも高速道路から見える植物もとにかく瑞々しい。
サン・セバスチャンは滞在時間があまり取れず、定石どおりのバール・ホッピングに終始してしまったが(とはいえ、隠れた名店にも多数足を運ぶことが出来た。持つべきものは地元出身のスペイン人の同僚!感謝!!)、Asturias地方の主たる都市の一つであるOviedo(オビエド)がこれまた恋してしまうほど可愛い街。
ウディ・アレンの近年では珠玉の名作といえる小気味よい’Vicky Christina Barcelona’(邦題は「それでも恋するバルセロナ」)の舞台になったことで、最近知った人も多いのでは。
今日は、Oviedoで感じたことを三点ばかり。
一つは、「ある特定の場所=街に恋をする」ということ。
ウディ・アレンが、正にそうなのだ。
実は上記の映画は、Oviedoを舞台にしてOviedoで撮影も行われた彼の作品としては三作目。
街への恋や思い入れは、大概一方向のベクトルではなく、相思相愛になる。
街としては、その街の存在と良さを世界中に宣伝してくれる宣伝塔は当然直接的な観光収入増に繋がる有難い存在に違いない。
一方、ひとたび国や街に愛着を覚えると、歴史や文化をはじめとして、カフェで飲む一杯のコーヒーもひときわ美味しく思えたり、道行くお婆さんの表情も穏やかで魅力的に思えてくるので不思議。
ウディ・アレンのOviedoとの「相思相愛」度は、街の中心部の石畳に据えられた銅像に物語られている。
アレンのようなアーティストは特に、「特定の街に恋をする」ということが自分の人生と作品に重要な意味を持つのだろうと思う。
ふと自分に照らし合わせて、自分も何処かの街に「恋をしたい」と思った。
それはスペインかもしれないし、どこか別の国かもしれない。
そんな妄想が楽しい。
二つ目。
Oviedoの街というのは、とにかく清潔で感心する。
「ヨーロッパでもっとも清潔な街」というカテゴリで無数の賞を受賞している。
ただこれも行政に大きく左右されるもので、任期13年目を迎える現在の市長が旗振り役となって実現したことらしい。
夜中0時が近づくと、市中を清掃車が巡回し始める。
ゴミ収集は、なるべく人々の普段の生活を妨害しないという目的で、0時から4時の間と定められている。
路上に落とされたゴミ一つ見つけることすら難しいこの空間は、清掃員のたゆまない努力の上に成り立っているのだろう。
愛らしい街の雰囲気といい、「何処かに似ているな」と思って、瞬間的に分かった。
・・・それは、ディズニーランド。
ディズニーは、世界中場所を問わず、「おとぎの国」であるディズニーランドが汚くなることを許さない。理由は、現存しないおとぎの国に皆が抱く夢を壊さないため。
ウディ・アレンが惚れ込んだのも無理もない、とため息。
Oviedoは、言ってみれば現実世界を超越した空間なのだ。
長くなってきたのと、三点目は若干視点が異なるのでまた次節(狼少年度が増してきましたが、次回はすぐに書きます!)。
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完全復活宣言!
http://canaryldn.exblog.jp/11615877/
2009-07-28T07:17:53+09:00
2009-07-28T07:17:51+09:00
2009-07-28T07:17:51+09:00
canary-london
current
前回エントリ5月末以降、香港から東京経由で6月初めにロンドンに戻ってから、6月および7月初めまでの週末は殆ど全くロンドンにいなかったため、プライベートでとにかく諸々のキャッチアップが忙しく、文章を書く暇がまったくありませんでした。
お待たせした皆様(別に待ってる人はいないと思いますが・笑)、ご心配をお掛けしました。今までどおりゆっくりしたペースではありますが、ぼちぼちアップしていきたいと思っていますのでご笑覧頂けましたら幸いです。
Canary-london 拝]]>
Globe-trottingは続く: 香港出張旅のメモ
http://canaryldn.exblog.jp/11154370/
2009-05-26T01:28:27+09:00
2009-05-26T01:28:27+09:00
2009-05-26T01:28:27+09:00
canary-london
travel
というのも、最近globe-trotterぶりが加速していることに依るところが大きいかもしれない。アウシュビッツの旅行記なんぞを書いていたのはいつぞやの話、今は香港のホテルで缶ビールを開けながら久々に自分のブログを眺めた次第。
突如香港に来ることになったのは、ビジネスマンとしてはそんなに珍しい理由ではない。香港で私と同じような仕事をする同僚が前触れもなく長期休暇に入ってしまったため、先週はNYから同じチームの若い女性が彼の代打として急遽出張したのに続き、今週は私にお鉢がまわってきたというわけ。
・・・そんなわけで香港。
最後に出張で訪れたのは10年ほど前だろうか。
何しろ久し振りでもあるし、とりあえずは雑感。
*気候と天気
飛行機のタラップを降り立った途端に、ムッとくる熱気。
今の時期、気温自体は摂氏28-30度と狂ったほど暑いことはないのだが、蒸し暑いアジアの夏から3シーズンも離れた緊張感のない身体を、皮膚への衝撃(涼しく湿気の少ないところに長くいると気泡が閉じてしまうらしい)と何とも言えない不快感の両方が同時に襲ってくる。
不運なことに、天気も悪い。
空気中の水分が教科書通りに雨粒となって降ってくるだけでなく、横風も容赦なく吹きつけるので、傘を持つ意味すらない。
私が到着した水曜日のほんの一日、二日前までは晴天続きだったらしいのだが、マーフィーの法則とはこんなものだろうか。
香港随一の屋外プールがあるホテルを選び、ロンドンでは不足しがちな日光浴でもしようと勇んで水着も持参したのに、水着もサングラスもすっかり箪笥のこやしと化している。
*Skyscrapers(高層ビル)と街としての憩い
雑然と立ち並ぶ無数の高層ビルと、それらを灯すネオンに彩られて24時間眠らない街。
香港は東京と比べると余程規模が小さいものの、「夜の眠らなさ」でいえば似た部分があり、さしずめ東京の銀座か新宿だけを切り抜いてクローズアップしたようなイメージだろうか。
ロンドンにもヨーロッパの各都市にももちろん夜の繁華街というのはあって、街の「眠らない」部分はあるのに、こうも印象が違うのは、建物の新旧ひとつで趣が全然異なることの表れなのだろう。
いきおい、街としての「憩い」や「癒し」は少ない。
出退社時に乗り慣れつつある高速エレベーターは、臨時のアートギャラリーがしつらえられた3階から、弊社オフィスのある45階まで瞬時にして音もなく連れていってくれるのだが、新しいビルの新しい設備の中にばかりいると、何だか落ち着かない。これも、ロンドンっ子の「古いものは良いものだ」的感覚が沁みついてきたからなのだろうか。
*コンパクトさと効率性
香港にいると、全てが近い。
狭い半径の中にたくさんの人が押し込まれ、建物はニョキニョキと上へばかり伸びるため、地上の移動は徒歩でも車でもらーくらく、なのだ。
Mid-levels Escalatorなんて、誰が考えたのかしらないけど偉大な発明。
高台にある居住地と、港に近い低地のオフィス街を結ぶ屋外の(屋根は付いている)エスカレーター、というか徒歩で進むコンベイヤーベルトなのだが、800メートルという長さは世界でもほかに例を見ないらしい。朝10:20までは出勤する人のために下りの一方通行、以降は上りへと変わって一日動き続ける。
地下鉄も便利だが、香港の地元民はタクシーを気軽に使う。それだけ移動が早く、また他の都市に比べて安価。通勤はタクシーという人も意外に多い。
血筋的に東洋人の顔をしているものの、生まれも育ちもロンドンという同僚で6年前にロンドンから香港へ転勤してきたCに言わせると、この便利さと効率性をひとたび味わうと、ロンドンになんかとても戻れないのだそうだ。
なるほど納得。
*人と言語
上述のCなども、顔は東洋人なのに北京語も広東語も一言も解さないため、それはそれで違和感がある。が、普段ロンドンで生活し、自分と全く違う姿かたちをした道行く人達が自分の言葉である日本語を理解しないのに慣れている自分としては、目鼻立ちは互いにとても似ているのに互いの言語を全く理解できない状況に、新鮮な感覚とやるせなさを同時に感じる。大きな声では言えないが、大学時代は現代中国政治専攻だったのだけれど。何で外国語のひとつも真面目に勉強しなかったのだろう。
香港の公用語は広東語。周囲を歩く人のほぼ9割が広東語を話していると言っていい。
言語による特質の違いというのも、ヨーロッパの言語については分類が日常化してしまった感があるが、アジアに来ると感覚を新たにさせられる。広東語は、良くいえば元気・快活、悪くいえば攻撃的な印象で、普通の会話を傍で聞くと口論に聞こえることもある。
*とはいえ、やっぱり近いニッポン
・・・そうはいっても、何かにつけて強く感じたのは、香港が色々な意味でいかに日本に近いかということ。こういう事は、得てして非常にくだらない場面で感じるのだが、今回の私の場合も例外ではない。これについては次節。
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旅のメモ: クラコフとアウシュビッツ
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2009-05-13T09:46:14+09:00
2009-05-13T09:46:14+09:00
2009-05-13T09:46:14+09:00
canary-london
travel
日本に比べると少ないのは周知の事実だが(銀行も休業となるBank Holidayのベースで比較した場合、2009年は英国8日に対して日本は16日)、他の欧米諸国に比べても少ないため(同じベースでの比較で、2009年は米国10日、フランス11日)、ロンドンで仕事をする外国人が不平を言うときの一つの大きな材料となる。
私もロンドンに働く外国人の例に洩れず、「もう少し祝日を増やしてほしい」と常に思ってはいるのだが、それでも英国の祝日を決めた人は素晴らしいと思うことが一つあって、それはその数少ない祝日のうちの二日間を5月としたこと。(もっとも、フランスは5-6月の二カ月に四日も国民の祝日があるのでイギリスだってまだまだ改善の余地はあるのだが。)
5月は新緑が美しく、ヨーロッパの少し南に旅をしても暑すぎることが少なく(6月初めともなると乾燥したアンダルシア地方などは非常に暑い)、天候も概ね良い。
つまり、ヨーロッパ近郊への旅行に最適の時期。
ロンドン自体も4-7月が一年で最も素敵な時期なので、この時期にロンドンを離れるのが勿体ないと思う部分もあるのだが、必ず月曜日の祝日を含めて三連休とする「ハッピー・マンデー」(そんな名称は当地ではないが)政策も手伝って、5月の連休は旅行に出るというのが定石どおりの過ごし方となる。
5月/2/3/4日の三連休は前もって計画を立てていたわけではなく、ちょうど別の友人との予定がキャンセルになってしまった旅行好きの友人に誘われ、二週間ほどの間で行先を決めて、格安航空券とホテルを抑える。こういったカジュアルな、つまり行き当たりばったりの旅人が簡単に旅行の計画を立てて出掛けやすいのもヨーロッパの魅力の一つだろう。
今回の行先にはポーランドを選んだ。
東欧へも色々足を伸ばそうと思いながらも、リラックスできる休暇で訪れる先としては、どうしてもイタリア・スペイン・フランスが群を抜いて多くなってしまう。
クラコフは、昔一緒に働いたスイス人の同僚も「絶対に行くべき」と強く薦めてくれたこともあって、以前から東欧で是非行ってみたいと思っていた都市の一つであった。
ロジスティックスの達人である友人の提言で、二泊の拠点をクラコフに置いて近郊にも出掛けることにした。
クラコフの街自体は、風光明媚ではあるものの、失礼ながらこれといった特色があるところではない。ヨハネ・パウロ二世(前ローマ法皇)が生涯で二度居住し現在は博物館となっているArchdiocesan Museumには行ってみたかったのだが、欧州で「MUSEUM」という名前のつくところは、月曜日というのは軒並み閉まっているのが常識。ヨハネ・パウロ二世ファンの自分としてはとても残念なことに、今回は見ることがかなわなかった。
クラコフの街でもっとも私の興味を引いたのは、中世から残る広場として欧州最大級である中央広場・・・自体ではなく、その広場の片隅に設置された仮設のコンサートホール。
プレハブのような簡素な造りの舞台で、観客席はといえば無造作に並べられたパイプ椅子。観客席の方には屋根もないので、雨が降ってきたらおもむろに店じまいするのだろうか(我々の滞在中は幸いにして終始好天に恵まれた)。
ここで、一日中何らかの音楽が演奏されている。
舞台の制約上室内楽が多いようだったが、通りがかりに耳にしただけでも、モーツァルトやブラームスなどの音楽が弦楽器でしっとりと奏でられていた。
ポーランドといえば、ショパンの音楽だけが神格化されているのではないかといった漠然としたイメージを抱いていただけに(かく言う自分もショパンの音楽を神格化しているクチだけれど)、これはちょっと意外。
・・・と感じると同時に、街角の広場で(確認できなかったが、おそらくチケットは無料またはとても安価なのだろうと思う)毎日ごく気軽に優美且つなかなかどうして質の高いクラシック音楽を誰もが聴けるなんて、何て素晴らしい環境なのかと羨ましく思った。
日頃から良い音楽を聴いているからこそ、彼らの耳は実に研ぎ澄まされているのだ。
旅の大きな目的の一つは、やはりアウシュビッツを訪れることにあった。
オシフィエンチムという、ヒトラーがいなければ世界にその名を知られることはなかったであろう小さな田舎町は、クラコフから南西へ約60km、ローカルの列車で1時間半ほどの場所に位置する。
有名な、「働けば自由になれる」の看板が高々と掲げられたアウシュビッツIは、とにかく凄惨の一言に尽きる。
アウシュビッツIからIIIの合計で命を落としたユダヤ人をはじめとする被収容者の総数は150万人ともいわれるが、その多くが射殺され血を流した「死の壁」。
死を待つ間の短い時間を過ごすために使われた小部屋の壁には、祈りの言葉やキリストの画が彫られていた。
死体から切り取られ、商品として流通した毛髪の山・山・山。
靴。
眼鏡。
小さな子供服。
皿や鍋などの日用品。
―目を背けたくなる。
もうひとつ驚いたことは、収容された(そしておそらくは処刑された)人の顔写真が実名入りでずらりと展示されていること。
全員はとてもカバーできないだろうが、それにしても相当な数だ。
遺族は、訪れるたびに一体どんな気持ちでこの写真を眺めるのだろうか。
アウシュビッツIから3kmほど離れたところに、アウシュビッツII・通称「ビルケナウ」がある。こちらは、被収容者の増加でアウシュビッツIがパンク状態となったことを受けてより後年に造られたもの。
収容者の私物略奪など日常的に行われたナチスSSの犯罪行為の証拠隠滅のために殆どの建物が焼失しているため、現存するのは、ただひたすら広大な野原に建物の土台部分が散在するという奇妙な光景。
こちらのビルケナウの方は、アウシュビッツIと違って、直接的・視覚的な悲惨さは少ないのだが、何も残されていないだけに、ここでほんの65-70年程度前に行われた残酷きわまりない行為にむくむくと想像が膨らんでしまい、逆に背筋が寒くなった。
浮かぶ思いはただひたすら、’How can a man do this to a fellow man?(どうしたら人は同じ人間に対してかくも酷い仕打ちが出来るのだろうか?)’ということだった。
今回のアウシュビッツへの旅に、映画のようなとてつもなく不気味な現実感のなさを与えたのは、新緑の季節と素晴らしい天候だった。
大量殺戮が行われた現場に立っているというのに、建物の外を見やると実にのどかで殺人などとは無縁な緑の芝生や木々と青い空が広がり、太陽が燦然と輝く。
このギャップが、何よりも空恐ろしく感じられた。
オシフィエンチムの駅からアウシュビッツIまでは、バスもないので20分程度の道のりをただひたすら歩いた。道すがら、何ともいえない違和感を感じたのは、広い庭を備えた実に立派なたたずまいの数件の戸建。
近隣の住民で、被収容者を援助するため尽力した人が多いことはもちろん知っているのだが、この人達は、救いの手を差し伸べたのだろうか。もしくは、二次大戦後に居を構えた人々なのだろうか(でも、誰が好きこのんで大量殺戮現場から数百メートルしか離れていない場所に土地を買って住まうのだろうか?)。
不吉なほど晴れわたった空の下、私はそんなことをただぼんやりと考えながら歩いていた。]]>
気ままな映画論
http://canaryldn.exblog.jp/10943203/
2009-04-30T08:00:13+09:00
2009-04-30T08:01:52+09:00
2009-04-30T08:01:52+09:00
canary-london
cravings
普段読めない書物、気候が良くなってきたというのにあまり定期的に出掛けないジョギング、そして普段片づけられない家の雑務や狭い庭の手入れ。
ピアノを思う存分弾くこと。
忙しいときにはなかなか出来ない少し手の込んだお料理(イースターは手打ちパスタに挑戦してみた。結果は使用した粉のせいか予想以上に粉っぽくなってしまい、100点満点だと自分の評価では55点程度だろうか。)。
家のことを片づけていると、四日間なんて実はあっと言う間に過ぎてしまう。
そんな四日間の中で、先月日本に一時帰国した際に買い求めた映画を幾つか観た。
昨今DVDも安くなったもので、ふと通りがかった本屋に「ワンコインDVD」なるものが陳列してある。
ワンコイン=つまり一枚500円で買える。
映画館とは音響もセッティングもすべて異なる自宅での映画鑑賞に500円掛けることを「贅沢」と否定する人も少なからずいるのだろうとは思う。
私にとってみれば、好きな時に、好きな人と、好きな体勢で、好きな物を飲み食いしながら好きな映画を観られるなんてこの上ない幸せ。
映画館に行くよりも多く払っても良いぐらいだ。
ワンコインで買い求めた映画は、アメリカ・フランス・日本の物など雑多(ちなみに、一枚1000円と他より高い価格設定のものもある)。
「ローマの休日」。
これまでの人生で一体何度観たのだろうか。
今まで自宅になかったことが不思議なぐらい。
50年以上経った今も、少しも古いと感じないヘプバーンの高貴な魅力。
気づけばバスケットに入れていた。
「カサブランカ」。
これまた、ハリウッド映画の黄金時代の代表作で幾度となく観ている。
そのたびに涙してしまうのだから、我ながら単純にできているらしい。
いつの時代に観ても色褪せないハンフリー・ボガートとイングリット・バーグマンの美しさ。
言わずと知れた名セリフ、‘Here’s looking at you, kid’。
「君の瞳に乾杯」の訳をつけた高瀬鎮夫氏のセンスにはただただ脱帽する。
「天井桟敷の人々」。
「カサブランカ」とほぼ同年代の制作ながら、この当時からフランス映画は喜怒哀楽の単純明快な米国映画と対極にあるのだと感じたのは、早稲田大学に程近い場所にあるミニシアターで初めて観た19歳の頃だっただろうか。
そして、日本代表選手は小津安二郎監督の「晩春」と「お茶漬けの味」の二品。
一見ばらばらの5本なのだが、共通点があるとすれば制作年代だろうか。
この中ではもっとも古い「カサブランカ」(1942年)から、もっとも新しい「ローマの休日」(1953年)までの11年のスパンに5本のすべてが凝縮されている(「天井桟敷の人々」:1944年、「晩春」:1949年、「お茶漬けの味」:1952年)。
そうして改めて考えてみると、自分の好きな映画は邦画・洋画を問わず、1950年前後のものに集中しているように思う。
黒澤明監督の「七人の侍」も1954年の作品。
その理由について漠然と考えてみると、思い当たることは二つ。
一つは、月並みな表現だけれど「良い時代」だった、ということに尽きる。
希望に満ちた時代。
もちろん、第二次大戦下の「カサブランカ」と「天井桟敷の人々」について「希望に満ちた時代」ということには反対意見もあると思うが、今日よりも明日、今年よりも来年の方がきっと素晴らしいのだろうと思えた時代。
きっといつの時代に生きても人はないものねだりをするのだろうけれど。
もう一つは、両親の影響だろう。
よりリアルタイムで身近に感じられる1970年代以降の映画も、はたまた自分で魅力を発見したと自負している1930年前後のドイツ映画にも思い入れは強いが、三つ子の魂百までとはよく言ったもの。
子供の頃に両親と肩を並べてテレビで観た映画の印象の強さは、そうやすやすと他のもので上書きされるものではない。
・・・実は今回は、久し振りに観て魅力を再発見した小津映画について書こうと思っていたのだが、寄り道をするうち紙面が尽きてしまった。
ということで、小津映画についてはまた次回。]]>
Choose What You Read
http://canaryldn.exblog.jp/10875858/
2009-04-22T11:09:20+09:00
2009-04-22T11:10:55+09:00
2009-04-22T11:10:55+09:00
canary-london
social entrepreneur
敢えてここでご紹介するまでもない雑誌だろう。
ホームレスに仕事と収入を与える目的で1991年にGordon Roddick氏とA. John Bird氏が創設したこの雑誌に対する関心は私の周囲でもかねてから高く、身近でもこんな人やこんな人が過去にブログで取り上げている。
Roddick氏は、これまた説明の必要は少ないであろうボディ・ショップの創設者で2007年に早過ぎる死を迎えたAnita Roddick氏の夫。一方のA. John Bird氏は、自身が5歳から20代後半まで人生の様々なステージにおいて(望むと望まざるとに拘らず)ホームレスとして路上生活を体験した人物なので、スゴミと説得力が違う。
日本では300円で販売し、そのうちの150円がホームレスの収入に充てられるとのこと。
ロンドンでは1.50ポンドで販売しており、うち80ペンスがホームレスの収入にまわるので、為替の変動はおくと相場は似たようなもの(ご多分に洩れず昨今のポンド安でイギリスの方が安い)。
私自身、これまでかなり長い期間この雑誌の存在を知りながら、恥ずかしいことに実際に購入したことがなかった。
オフィスからの帰り道。
今日は事情により退社時刻が早く、自宅最寄の地下鉄Angel駅を降りたのは6時前だっただろうか。日照時間がどんどん伸びて、一年でもっとも素敵な季節を迎えつつあるこの時期のロンドンの爽やかな青空も手伝ったのかもしれない。
いつも何となく素通りしてしまっていたビッグ・イシューの販売員のホームレス男性に近づき、
「一冊もらえる?」
と話しかけたら、ぼさぼさの長髪ながら不思議と不潔感は感じられないその中年男性は、満面の笑顔を浮かべて
「ホント?お陰様で今日の夜のメシにありつけるよ!」
と実に嬉しそうに言うのだ。
「まさか私が貴方の今日の最初のお客さんってわけじゃないでしょう?こんなにお天気も良いのに。」
と会話を続けたら、
「三人目。午前中に二冊売れたけど、午後はアンタが初めてさ。」
小銭がなかったこともあって、1.50ポンドの倍の3ポンドを支払って去ろうとしたら、
‘(You are a )...diamond. Thank you. God bless.’
なんて、こちらが赤面するような感謝の言葉を背中に投げかけられる。
・・・こんなセリフ、仕事でもっと余程感謝されるような働きをしたときですら、言われた試しがない(笑)。
愛嬌のある、実に気持のよいミスター・ホームレスなのだ。
どうしてもっと早く買ってみなかったんだろう?という気持ちと共に自宅に戻り、雑誌を開くと、そんなに「社会的」な内容でもなく、読み物としてごく普通に楽しめる。時事・政治ネタもあれば、文化・音楽、お料理レシピ(これはちょっとガテン系(←死語?)という印象だったが・笑)、そして忘れてならないのが社会起業家的な切り口の記事。
今回は、セレブシェフJamie Oliverの経営するFifteen Foundationを含む二社の活動が紹介されていた。
ふと、先日FT magazineで読んで本当に共感したClaire Wilson氏の記事を思い出した。
‘Choose What You Read’。
毎日街中に溢れている無料配布のフリーペーパーに以前から疑問を感じていた彼女は、ある日友人と二人で、ボランティアで集めた書物の無料配布を行う団体を立ち上げた。
考えてみれば、東京でも「メトロ文庫」の歴史は古いと思うので、コンセプトとしては決して新しいものではないが、フリーペーパーに異議を唱える彼女の考え方には100%賛同する。
私もフリーペーパーが大嫌いだ。
セレブの生活にも、少年犯罪のリアルな描写にも興味がない。
フットボールの結果をチェックするのには便利ではあるけれど。
―Choose What You Read。
益々情報が氾濫する現代、我々には読むものを選ぶ権利がある。
今後は、ビッグ・イシューを進んで読もうと思う。
今日のような、ささやかな幸福感を味わうためにも。]]>
エレベーター考
http://canaryldn.exblog.jp/10830844/
2009-04-17T13:57:16+09:00
2009-04-17T13:57:16+09:00
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canary-london
current
私の現在の勤務先は9階建てのビルの3階であるため、出社・退社時にこの興味深い空間で過ごす時間というのは残念ながらさほど長くないのだが、東京の満員電車でもなければあんなに狭い空間で他人同士が互いに密着して過ごす場面は少ないと思うので、この狭さ・密着度ゆえの面白さなのだろうと思う。
エレベーターの狭さが笑いのネタを提供するのは何も新しい話ではなく、サトウサンペイ氏の「フジ三太郎」だったか、エレベーターの中で誰かがオナラ(しかも所謂‘すかしっ屁’というもの)をした場合の犯人探しを巡る機微など子供の頃面白く読んだ記憶がある。
狭さということと会話について。
特に我々のような業界では、部署によりあまり公になっていない情報(例えばある会社の株価に影響を与えるような)を持っている人もいるため、エレベーターの中で固有名詞を出して仕事に関する会話をするのは避けるべし、といった何かしらのガイドラインが設けられていることが多いと思う。
・・・この「固有名詞を出さない」という部分、人によってはあまりというかまったく守られていない(笑)。別に私自身、株価に影響を与える云々でひと儲けできるような情報に耳をそば立てているわけではなく(残念ながらそういった才能も覇気もまったく持ち合わせていない)、同僚とお客さんに関する情報で「へえー」と思うようなことの情報源が意外とエレベーターだったりするという実に低俗・世俗的なレベルの話なのだけれど。
多少補足として言い訳をすると、固有名詞に関するセンシティビティーは、建物として弊社だけが入るビルか、あるいは複数の企業が雑居するビルかによっても違いがある。
弊社のロンドンオフィスは前者。とはいえ、もちろん外部からのお客さんが乗っていることは多いので、乗り合わせるのは弊社の人間ばかりとは限らない。
ロンドンという地が、上に書いたようなエレベーターにおける「会話の傍若無人さ」に拍車を掛けるのは、多国籍である環境にも少なからず原因があるのかもしれない。
自分自身について考えてみても、「日本語なら分かるまい」と思って公共交通機関の中で友人と日本語で話をし、しばらくして反省した局面は一度二度ではない。
周囲の人について何か悪い事を言っているわけではないのだが、単純に「英語で皆に意味が解せる内容だったら相当恥ずかしいよね」といった類のこと。
弊社では、部署にもよるので分からないけれど、英語でない言語(その殆どがヨーロッパの言語だが)を母国語とする人は半分以上に上るのではないかという印象。
フランス人など結構熱くなる傾向があり、フランス人同士ともなると、エレベーターの中で周囲にはお構いなしといった風情で早口で喋り続けている。
・・・自分にフランス語が分かれば面白い会話をしているに違いない。
エレベーターの中に設置されることの多い鏡というのも、このハコの面白さアップに貢献している。
私は別にナルシストでも何でもないのだが、出勤時にエレベーターに自身の姿を映してチェックする作業は欠かせない。実際、朝も早いと「取るものも取りあえず」家を出ることが殆どなので、エレベーターの鏡を見て初めてマスカラがとんでもない位置にはみ出していることに気づいて慌てて直すことも多い。
出勤時だけでなく、デスクの同僚数名と持ち回りでオフィス裏のスタバにコーヒー調達に走るときも、クセになっているし他に特にすることもないのでエレベーターの鏡を凝視することになる。あるときコーヒーのトレイを持って鏡を見つめていたら、乗り合わせた同僚(といっても知らない男性だが)に「その鏡の裏は隠しカメラになっていて撮影されているんだよ」とからかわれ、一瞬真に受けて本当にびっくりしてしまった。
・・・英国的sense of humourだなあ。
こんなすべても、旧式で鏡以外特に面白いものも設置されていないエレベーターゆえ。
最近の、特に東京の新しいオフィスビルに多いTVモニターがついているエレベーターなどでは、私がつらつらと書いたような原始的なエレベーターの楽しみは味わえないことだろう。世の中「エレベーターは狭いもの」といった常識も変わってくるもので、自分が東京で勤めていたビルは、ガラス建ての建物の中心を吹き抜けにし四方に大型エレベーターを据えた斬新なデザインを不動産会社が自慢にしていたが、エレベーターが大きいと、ドアが閉まるのに時間が掛かり、例外なく急いでいる朝の出社時など本当に苛々する。大体が、ドアがゆっくり閉まり切る直前に強引に駆け込んでくる輩がいるもので、こうなると安全上の理由から大きなドアが再度悠然と開き切ることを余儀なくされ、更に人が駆け込んでくるという悪循環。
デザイン性より機能性を重視してほしい、と毎朝S不動産に心の中で悪態をついたものだ(笑)。
そんなわけで、時代と共にエレベーターも変化・進化するのだろう。
50年後・100年後の世界には、エレベーターというものすらなかったりして。そんなジョージ・オーウェル的な思いを抱くと、空想がどんどん広がり、気づくと傍らのワイングラスが空になっていたりするので困ったものだ・・・。]]>
インベストメントバンカーとスーツ
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2009-04-11T05:45:00+09:00
2009-04-11T05:55:11+09:00
2009-04-11T05:45:55+09:00
canary-london
cravings
以前にも紹介したことのあるFTのコラムニスト、Lucy Kellaway氏のコラムは時流をうまく捉えていて本当に面白い。2-3ヶ月ほど前の彼女の記事の一つに、不況とホワイトカラーのファッションについて言及したものがあって興味深かった。
これ自体はそんなに目新しい話ではないが、つまり現在のような不況時においては、小ざっぱりとしたスーツ姿の人が増えるということ。
すなわち、求職人口とスーツ姿の人の数がある程度の比例関係にあるということなのだろうと思う。
前回のエントリで、「・・・普段スーツ姿を見慣れている同僚・・・」などと書いたけれど、実は私の職場はスーツの人ばかりではない。
インベストメントバンクと一口にいっても、会社、ロケーション、そして部署によって服装のプロトコルには実は大きな違いがある。
まず会社による違いということについて。
通勤時の服装に関するポリシーは会社によって異なる。
もっといえば、その時々のマネジメントの主義によって左右される。
私は当初ロンドンに転勤した際、ワイシャツでなくボタンダウンのシャツにチノパンというトレーダーの多さに「東京オフィスに比べて何てカジュアルなんだろう」と驚いた覚えがあるが、10年ほど時間を巻き戻すとロンドンでの服装に関する規律は今よりかなり厳しいものだったらしい。
こちらで同じフロアに座る債券畑の同僚は、来客などがないときにはスマートカジュアルという人が多い。
ロケーションによる差もあるように思う。
ロンドンのシティやカナリーウォーフとニューヨークのウォール街を比べた場合、ニューヨークのバンカー達の服装の方が概ねぱりっとしている。
映画「ウォール街」からはもう20年以上も経ってしまったが、街の雰囲気と国民性の両方が作用するのか、今も頭から爪先まで抜け目のない格好で「肩で風を切って歩く」バンカーの数はロンドンよりもニューヨークの方が多いように思う。
ロンドンは何というのか、ユルイのだ。
・・・とはいっても勿論、折からのクレジット・クランチで、肩で風を切って歩けるだけの自信も財力も、また職すらも失った人が圧倒的に多いなか、世界的にこんな人種自体が激減してはいるのだろうけれど。
部署による温度差もある。
上にも書いたとおり、私の働く債券部はカジュアルが主流。
何らかのニュースを受けてフロア全体が騒々しくなることもあるほか、実際問題としてトレーディングフロアというのはPCの端末が異様に多いせいか、割合温度が高く乾燥しているため、首までボタンをきっちり締めてネクタイなど、現実的に「やってられない」という面もあるのだろう。
一方で、企業買収などを手掛ける所謂「バンカー」と呼ばれる投資銀行部門では、普段から隙のないファッションに身を包む人が多い。
あくまで個人的な感想だが、私はオフィスで一緒に時間を過ごす男性にはスーツを着てほしいと思うスーツ支持派。
普通のスマートカジュアルの場合は、先日さんざん批判したジーンズほど着こなしの差が出るわけではないのだが、やはり同じ空間で働く男性が綺麗にプレスされたシャツにぴかぴかの革靴を履いていると、背筋が伸びる。
・・・冒頭のKellway氏のコラムに戻ると、こと服装に関していえば「不況万歳」ということになるのだろうか(笑)。]]>
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